「子供は信じません」?

昨日書いたこちら(http://d.hatena.ne.jp/iteau/20080403/p1#c1207228502)で、少々長いコメントのやりとりをしている。
「子供は信じません」とのタイトルで、国歌斉唱不起立の「干渉」はあった、と日記の書き手の方はお考えのようで、
私はたとえ「干渉」があったとしても子供がしたくなければしないはずだ、と考えているので、意見は全く一致しない。
私がこの方のかかれるものに不信感を抱いているのは教育現場を取り上げているのにもかかわらず
「子供の意思」は不在でもかまわないと考えられている点で
もっぱらそのご主張は「教師の干渉」である、と繰り返されている。
コメント欄の一部をとりあげる。



『問われているのは子供の意思ではなく、公教育の側からの干渉です。
その干渉を子供たちが自発的にどうこうという点は問題ではありません。干渉があったかなかったかだけです。
公教育の側の責を問うていることは自明だと思うのですが』



「公教育側の責」を問うのはなんのためであるのか、
その「干渉」が何故問題になるかと言えば、子供に悪影響があるからではないか、
ただひたすらに「干渉」を問題にされるのに「子供の意思は問題ではない」と、それは本末転倒ではないだろうか。
何故「公教育」に「中立性」が求められるかと言えば、それが施される「子供」に「主体性」を持たせるためである。
それなのに「子供達の自発性」を問題にしていないとはなんのための論考であるのだろう?
「公教育の中立性」をうたうのはどうやらただひたすらに『自己主張』のためであるようだ。
再び、コメントを引用させていただく。



私は他校と比較して突出して異なる状況の出現が一般的な自発性によるものだと見るというのは
ほとんど気が違っているとしか考えられませんが、



「突出して異なる状況の出現」とは何と比べてそれを「異なる」ものだと判断されるのか、私にはわからない。
この方の周りでは国歌を全員が起立して朗々と斉唱している「中学校」が「一般的」に存在するのだろうか?
確かに、



私の聞く話では中高の国歌斉唱はとどこおりなく行われているようですが、地域的な違いがあるのでしょうか。


 
と書かれているが、これはあくまで「伝聞」であり、
これを話す人間がどのレベルを「国歌斉唱が滞りなく行われている」と考えられるのか定かではない。
「伝聞」だけを元にして「一般的」と考えられるid.iteau 氏の感覚を私は「ほとんど気が違っているとしか考えられ」ないが
現実的に中学の卒業式を経験し、同じ年頃の子供を持つ私の考えの方が
子供をお持ちではないらしいご自分より遙かに狭いとお感じのようなので私との感覚の一致は決してみられることはないだろう。
私は「子供不在」の「教育現場論」を非常にうっとうしく感じる。
「公教育の中立性」など、「国歌斉唱」を強要されている現場の保護者、子供達にとって何を今更、と鼻で笑いたくなる。
そもそも「卒業式」一点のみを取って何故「公教育の中立性」が問題になるのだろう、
何故、国歌斉唱をするのだろうか?誰のためにそれを歌うのか、
少なくとも「自分たちのため」ではないことにとっくに子供達は気がついている。
国旗に向かって国歌を歌わされるのは、来賓達を喜ばせるためだけに存在していることをよく知っている。
国歌斉唱など、「おつきあい」の一環でしかない。
それを自分たちの「卒業式」に「する」か「しない」かは子供達が決めてもかまわないのではないだろうか?
そこに「公教育の中立性」などと、今まで教育現場に何をしてくれた?と言わずにいられない人たちに
大上段で持ち出されても何故、そんなものまで相手にしなければいけないのだろうか?
常に「公教育の中立性」をうたってきてくれただろうか?この方を含め、卒業式の「国歌斉唱」「だけ」を取り上げる人たちは。
卒業式での国歌斉唱の「公教育の中立性」などとさも「教育のため」と標榜しつつ、
そこにいる子供達は「信じません」「子供の自発性は問題ではない」、
「一斉に子供達が何かをする」ことを「気が違っている」と評するなら
一斉に起立して国歌斉唱することも「気が違っている」と糾弾すべきだろう。
「子供は信じません」の意見の表明は子供への誹謗であると私は受け止めている。
何故「子供は信じません」と切り捨てるのか、子供の何を知っているのか、何を「一般的」と考えるのか、
曖昧な情報を元に「いじめ」と絡めて「子供は信じません」と書く、その「無意味」を私は問いたい。
私は今の子供が「一斉に」何かをすると言えば自分たちが「選んだこと」以外考えることは出来ない。
学校崩壊世代、ど真ん中だ、そんなに唯々諾々と教師の言うことを全員が聞くとすればここ数年の
「学級崩壊」が問題になることはなかっただろう。「いじめ」も存在するはずがない、教師の言うことをそれほどよく聞くのなら。
子供達は子供達の「ルール」に則ってなら一斉に行動する、「自分たちが選んで決めたこと」であるから。
私の知る限り、最近の卒業式では子供達が「選んだ」歌を一曲歌うところが多い。
国歌斉唱は非協力的であっても、自分たちが「選んだ」「歌いたい」「歌」ならば子供達は進んで「一斉」に合唱する。
これを「気が違っている」と考えられるのなら、「教育」の意味をはき違えていると私は判断する。
「卒業式なんかなくてもいい」と書きながら卒業式の「国歌斉唱」だけを取り上げてに「公教育の中立性」を問題にするとは、
「気が違っている」のはどちらだろう。少なくとも「私」ではない。
私は毎年毎年、卒業式の「国歌斉唱」のみを取り上げられることに本当にうんざりしている。
子供の「ため」などかけらほども考えていない人間が何故か大好きな「中立性」を振りかざして「国歌斉唱」を迫る。
したけりゃするよ、子供にこんな時だけ「干渉」するな、と私は思わずにはいられない、
しかし「したくないからしなかった」を、「子供は信じません」と、その「意思」を全否定する。
170人もの生徒が「いじめ」をするごく一部の生徒と同じであるかのような例えをもちいて。
「いじめ」をする子供達と170人全てが「同じ」であるとの考え方はあまりに乱暴すぎるだろう。
教育現場への無理解に加えて私は安易に「いじめ」を持ち出す「偽善」に辟易とさせられた。
公立中学がどこも同じだ、とは私は言わない、しかし、伝聞のみで1校すらその「今」の実態を知らない人間に
あっさりと170人の子供の「決断」を「子供は信じません」と書かれたことに対してはやはり不快感を憶える。
主張されるその子供への「一般論」にどれほどの根拠があるものか、私はわからない。
この先、理解できるものか、注目しておきたい。