とある日記を読んで。

昨日、ある日記を読んで、
そこでは170人ほどの中学生が国歌斉唱時、起立をしなかったのは教師の扇動であるの意見は妥当だとされていて
あれれ、と、何かをしない「選択」権は中学生にもある、と私は思うので、
この行動が自発的ではないはずだ、のご意見には不賛成、その旨をコメント欄に残してきた。
一番手におえない生意気盛りの中学生、ましてや「卒業式」で、先生の指導に従うかどうか、
その「指導」に「正当性」を感じない限り、一斉に子供達が何らかの行動をとるとは考えにくい、
「強制」があった、とは保護者の立場ではほとんど考えないな、子供の意思があった、の方が自然だ。
この方が中学生のお子さんを「大勢」お持ちでないかぎり、「子供を信じません」という
やや私には「差別」的に感じられる意見には納得しない。と言うか、納得できない。
この時期の子供の難しさは、大人のようでいて子供、子供のようでいて大人、この「曖昧さ」そのもの、
少なくとも「大人」に対して抱く反発心は素晴らしく発達していて、
これは自分がすでに大人になり始めている自覚への最後の抵抗のようでもある。
なんにしても、先生の「指導」なり「強制」なりがあれば、むしろ起立するもの、しないもの、と数がまっぷたつにわれただろう。
ほとんど全員が同じ反応をした点を考えるべきではないか、頭から子供の自発性を拒否せずに。
15歳とは、「大人になります」と産声を上げ始めた時期だと私はやっと最近わかりはじめている。
「大人の赤ちゃん期」のいい方で理解してもらえるだろうか、自我なり、意思なりを持ってはいるものの、まだあぶなっかしい、
大人と子供の境界線をよろよろと歩き始めている、人の成長過程として当たり前のことで、
ここで大人が全く手を離してしまうのもいけないし、かといって、「子供のくせに」と押さえつけるのもよくない。
「意思」だけは確固たるもので、それを「全否定」するのは「無理」がある。
実感として、教師の扇動により一致して何かを行った、と私には思えない。
この年頃のほぼ「全員」をそうさせるのは不可能だ。私は子供の「決意」を強く感じる。
また、「信用しない」を「いじめ」に絡めていることも違和感がある。
「中道」という決め言葉同様、「いじめ」をキーワードにすれば、どんなものでも説得力のある話に見えてしまう。
しかし、国歌斉唱に起立しなかった生徒達と、いじめをする子供達と同列に考えるべきだろうか?
起立をしなかった、と言うだけで「いじめ」をする上に「うそ」をつく子供と同じに見るのはあまりだろう。
「起立」を「しない」ことは「くに」への「いじめ」ととらえるべきだろうか?非常に乱暴な例えに子供を引きずり込んでいる気がする。
自分に理解できる反応をしなかった、と言う点でその意思が「疑わしい」とは主観的ではないだろうか?
「起立をしないように強制された」と、もし子供が「そんなことはない」と言っても
「うそをついているにちがいない」と勝ち目のない「設定」に置かれているようで、これに「中立」性は感じられない。
ネットで「いじめ」と絡めて書けば、どんなことでも何となく見過ごされてしまう、
これが「いじめ」を見逃す一種の「手法」的なものでもあると感じる。
私はわかりやすい「いじめ」の光景とたとえて書かれた「信用しません」を「信用しません」。
不思議、と言えば、こちらの日記を拝見していると、「お帰りなさい、ミスターランスロット」と言いたくなった。
よく似た傾向の人は文体まで似てるものかもしれないな。
コメント欄の応答では、私が現実の子供を持った上での判断では狭い、との考え方のようなので
この日記の書き手が示す「子供観」をしばらく注視していようと思う。その「子供観」の根底に何があるか興味を覚えている。