かんそう。

著作権の世紀 変わる「情報独占制度」」(福井健策・著)を読み終える。
「グーグルブック検索」について読んで、著者の趣旨に反するだろうが、やはりiPadは「買い」だな、と思ってしまった。
一般人にとっては「おいしい」はなしだものなあ、電子書籍は侮れない、なんて、そのiPadは今、我が家にある。
5月28日に、「黒猫」さんが届けてくださったわ、、、世間では大騒ぎで驚いたわ、いつ、テレビをつけても取り上げられてたものな。
話題のiPadの感想はあとにして、再び「著作権の世紀」について。
非常に面白い新書だった、
著作権」の世界がまだまだ十分に法整備化されていないこと、急激なデジタル化に対応するために様々な考えが示されていることなど、
そもそも「著作権、食べられるものだっけ」のような私には、著作物が法的にはこうとらえられるのか、と新鮮に感じた。
ただ、基礎知識に欠けるのが痛感されたので、前著の「著作権とは何か 文化と創造のゆくえ」をダーリンから奪い取って読むことにした。
そちらを読み終えてから、再び読んでみることにする。
面白かったのが「疑似著作権」の考え方で、冒頭に取り上げられた「海洋堂フィギュア事件」と同様、ド素人の私には「へー!」って感じ、
著作権の集中管理のアイディアとか、それをする際の問題点だとか、
著作権」がそもそも「創作物」を取り扱う非常に難しい「権利」であることがよくわかった。
しかし、この「創作」というデリケートな領域にふみいる福井健策氏の良識ある考え方には感服する。
第4章、「PD、オア・ノットPD、それが問題だ」、「最適な保護期間を求めて」で、
一時、ネットの話題になったので知った著作権の保護期間延長で
「期間を調和させないと作品の国債流通が阻害されるのではないか」とか、「欧米並みにならねば」の論調に対し、
福井氏は
「国際的なコンテンツ流通の現場にいるもののひとりとしていえば、国による期間の不統一がビジネス現場で致命的な障害になるのか、
「期間が不統一だから日本とのビジネスはやめよう」といった事態がそれほど起きるのか、やや疑問には感じます」
と、あくまで現実的だ。
著作権に限らず、日本では新しい法制度が出来るときには、ややもするとムードに流された「空気」の議論がされがちです。
そして、いったん制度が出来てしまうと、事後的な検証というものがほとんどおこなわれません。」(引用・p127〜128)
など、現在、棚上げになっている都の「保護条例案」のあれこれを彷彿とさせるくだりなど、いやはや、ごもっとも、とその指摘に頭が下がる。
また、「作品や創作者の尊厳と著作権」では、
「作品への敬意のありようを創作者やその遺族が規定できるのか、仮に規定できるとしても著作権はそれを達成するための手段なのか」
「どのように作品を愛するか。それはクリエイターも介入できない、一人ひとりの読者・観客の聖域ではないでしょうか。
作品の尊厳は作品そのものからうまれます。
リエーターの死にものぐるいの創作の努力によって、作品を受け止めた読者・観客の心に直接生まれます。
法律には、それを促進したり、つなぎ止めたりする力はありません」(引用・p126)
と、この考え方は、大学で「文学とは何か」を学んだときの
「創作物は、創作者から生まれた時点で、創作者とはまったく関わりのないものになる」の考え方にも通じて私には感慨深い。
まあ、この考え方が正しいかどうかは別にしても。
あれこれ、書き留めておきたいことはあるものの、前著を読んでから、再び書き残すことにする。
で、我が家のiPadについて。
思ったより「重い」のが難点ではあるものの、電子書籍として「持つ」には便利だという印象、
スマートフォンにぶつぶつ言った、生意気盛りのデジタルネイティブが家に帰ってきてから吸い込まれるようにいじっていたのがなんとも。
「やはり、本は紙がいい」と言いつつ、現物が来ると別な魅力が見出されるようだ。
私には、新聞を読むのにいいなあ、ってところか、各社の記事が新聞「紙」にまみれずに読めるものね、
早速、「無料」の産経新聞を読んでしまったわ、「ただ」と思えば、それなりに読めるものだなあ。
しかし、多分、調子が悪くなるだろうから、送られてきた箱を保存していたりして、こういう点でアップル社には信用がないわ。
「デジタル」と言えば、福井氏は「ディジタル」とわざわざ表記するのに「こだわり」を感じて、こういう人って好きだなあ、とか思ったのでした。
相も変わらず、私は「どーでもいいこと」が頭に残る、いやはや。