条例顛末・雑録。

東京都の「なんとか条例」は棚上げになったようだけれど、
はてなでの主題は、永遠に飽きることない「児童ポルノ」関連のごちゃごちゃにながされていて、肝心な部分は忘れ去られているような。
実在の人間が非実在になってしまうような感覚がネットには時々あるなあ。
あちこち拾い読んでいてふと思ったのは、表現する側がそれを受け取る側の反応にまで責任を持つべきか、ってことで、
例えば、ミニスカートを「買って」はいている人が「ミニスカートにむらむらしたから襲った」の事件に巻き込まれた場合、
「ミニスカートをはいている方が悪い!」という奴は大勢いても、「ミニスカートを作ってる奴が悪い!」とはならない。
ミニスカートを買ってはいて「被害にあった」方が非難されてしまうんだよね。
エロ本を買って見て、それで犯罪を犯した奴の場合、「そんなエロ本を作った奴が悪い!」になってしまうのに、おかしいよねえ。
で、表現者はそれをうけとる側の全ての行動に責任をもつべきなのかな?
どうも、このあたりが私にはすっきり理解が出来ない、作り手が狙っているものとは違う反応がある方が「普通」だからなあ。
意図する通りに反応があることの方が多いんだろうが、思いもかけない反応があったりして、
それがまた「表現」として新しく拓かれていく、その「可能性」をつぶすな、と、
今回の条例の件では反対派のココロをそう読んだんだけれど、はてなのあれこれを読んでいると、性犯罪被害と絡められているからなあ。
広がりすぎると、いちばん大事な部分が抜け落ちてしまう、でも多分、いちばん大事なところは、ネットではどうでもいいのかもしれない、
少女漫画の道徳規制なんてぬるい話だものね、、、
今回のごちゃごちゃで「NANA」なんて子どもに読ませちゃいかん!の人がいるのを知ったりして、
いやー、すみません、上の子が小学生低学年頃からなにげに家にありました。(私の趣味じゃないです、ダーリンが読んでました)
当然、子どもも読んでたようですが、特にそれを注意することはなかったです。
えー、私って「虐待親」ってことー?セクハラ親、なのかな、私は。
でも、子どもは「クスリをやってセックスする話」として「NANA」を読んだりはしないんだよね、
生きている世界への漠然とした不安を漫画の世界観から読み取るんだと思う、セックスや、クスリは「こもの」としてしか、みないように思う。
何から、どんなものを受け取るか、とんでもないことを受け取るのかもしれないけど、それを規制することは果たして出来るかどうか。
特にエロの表現規制については「それがあるだけで我慢できない!」は私もよくわかるけど、
性犯罪を行う人間は、そういうものがなかったとしても何らかのかたちでその欲望を達成させると、私は見ているんで、
エロ表現が規制されたところで、性犯罪被害は減らないと思う。
つか、それを規制したら、まるで性被害がなくなるかのような考え方は、まるで去年の夏のインフルエンザの水際作戦のようで
結局、インフルエンザは蔓延したし、意味のない風評被害が酷かったのは、よく知られているんじゃないのかな。
物事は、どれだけ予防したところで「必ず起こる」と私は見ていて、
それが起こったとき、どうやってその被害にあった人間を支えてあげることが出来るか、それをもっと考えたいと思う。
と、私は「表現の自由」が「錦の御旗」であってもいい、と考える人間なので、
なんか「表現の自由ばっかり言うな!」みたいな反対の仕方には、納得しないのでした。
私は女子どもに性暴力を振るう人間が「自分はこんな表現に唆されて犯罪を犯しました!」なんて主張するのは、
責任を転嫁するいいわけに過ぎないとみなすので、よりその犯罪者のずるさを憎むのでした。
女子どもを力ずくで性のはけ口にするような人間の言ってるたわごとをなんでそんなに信じられるんだろうなあ。
「こんなものさえなかったら、俺はこんなことはしなかったー!」なんてのは、「嘘」だと思う。
春休み中、時間をかけて、なんとか条例全文を読んでおくかな。