ほんのメモ。

洋泉社発行の「実録 殺人事件がわかる本2010 spring(柳下毅一郎・監修)」に
「日本の殺人」を著した河合幹雄氏の特別インタビュー記事を読んで、特に興味深かった部分を抜き書きしておく。
(以下、河合氏・談)
「「性欲を押さえられなくて飛びかかった」という事件というのは、ほぼ存在しない。強姦は全部変態の犯行ですから。
本当の心の動機に迫ったら、もう信じられないような話が出てくるだけです。
性欲を満たすためなら風俗店に行けばすむのであって、そういう正常な性癖を持っている人はちゃんと社会に適応して
性犯罪は起こしません。捕まって刑務所に入っているのはみんな普通でない人です。
あらゆる条件が揃って、土壇場に追いつめられたら、ひょっとして誰かを殺してしまうかもしれないというのは、
人間である以上、かすかではあれ自分でもあり得ると思います。でも強姦は出来ないですよ。
要するに、相手が真っ青になって悲鳴を上げている状況で、性的に興奮は出来ません。
そこで興奮できる奴が強姦魔なんですよ、大久保清みたいな。
それ自体が趣味という奴でないと、普通の性癖の人は強制猥褻くらいまではあっても強姦は出来ません。」
(特別インタビュー 「気鋭の法社会学者・河合幹雄、「津山三十人殺し」と21世紀の殺人を語る」 p79)
年末に性犯罪被害に関して執拗に「自衛論」を主張する人間を見かけて、うんざりさせられたのを思い出した。
あの「自衛論者」はこの犯罪法社会学者の意見をどうみるだろう。
変質者から「自衛」することが可能であるかどうか、
罪のない女性が恐怖の声を上げることで興奮する、そのような性癖の人間に出会ってしまったら、何を自衛しようが無駄というものだ。
河合氏の意見に関しては「主観的」との指摘も当然あるだろうが、説得力のある見解と評価する人の数は少なくはないと思う。
私の知る限り、ごく一般的な男性は女性が扇情的なスタイルで歩いていたとしても、ちらちら眺めてやに下がる程度で満足する。
それは許される反応で、特に非難することではないだろう。性的妄想を抱くのと実行に移すのとでは雲泥の差がある。
しかし、「強姦されても仕方がない」にまで考えが発展するのは、ある種の変態傾向を持っている人間ではないか。
河合氏のこの発言は雑談形式の犯罪件数云々から続いたもので、犯罪行為の処理方に一抹の疑問を覚えるようなくだりでもある。
一般の感覚に「わかる」ように「記録する」ことが「(女性に)挑発されたから強姦した」の発想につながる、
そしてそれが安易な「自衛論」となり、被害者バッシングをまねく、
人が書くときの偏見が新たな偏見を生み出してしまう構造になるのだとも感じた。
こういうものが「データ」となってしまうのも恐ろしい。
ところで、洋泉社のこの手のムックは表紙に悪趣味なイラストが用いられていたり、
本当にプロのライターが書いたかどうか怪しい記事も見られるのだけれど、時々このような記事が載るので、参考になる。
とはいうものの、アラン・ムーア好きの配偶者が、特集の柳下毅一郎氏の訳した「フロム・ヘル」狙いで買ってこなければ、読むことはなかったな。
何でも目を通してみるものだ。
河合氏は「強姦は変態の犯行です」ときっぱいりいきっていたりして、その点に関して反論は数多くあるだろうが、
(主に「変態」の方々から。「変態にも人権を!」とでも言いそうだな、あと「そもそも変態とは、、」と「変態」定義をする奴)
私にとっては非常に納得できる意見だったので、今後のためにメモ。
先月は誕生月だったので新書を3冊、めずらしく買った。
加賀乙彦「不幸な国の幸福論」
堤未果「ルポ 貧困大国アメリカ」「ルポ 貧困大国アメリカⅡ」
その感想はまた後日。