思ったこと。

ネットを読んでいると、時々「そんなに正しさの純度を上げてどうする?」と思うことがよくある。
「ざいとくかいをつぶせ、とさけぶあなたがたもまたざいとくかいなみだ」の意見は私も「正しい」と思う。
でも、それでその振り上げた拳がおろされてしまったら、暴力をうけて痛みを訴えている側はどうなるんだろう?
今、殴られている側にとっては「殴るのはやめろ」と叫んでくれる以上にうれしいのは直接、その殴る手を押さえてくれる人の存在ではないか、
例えば別の誰かが、殴ってくる相手を「殴って」でもとめてくれれば、とりあえずは痛い思いをせずにすむ。
殴っている奴を殴ってでもとめるやり方は「正しく」はない、でも、そうするより他、殴るのをやめさせる方法がなかったとしたら、仕方がない。
痛いのは誰でもがイヤだ。私にわかるのはそれだけだ。
「正しい」は本当に強くて美しくて、だからみんなが「正しい側」に立ちたがる、そしてその傾向は「ざいとくかい」も「同じ」だ。
しかし「より正しい方、より正しい方」に向かう、「正しい」の「純度」をあげる言葉を読んでいると、
私は麻薬中毒者がより強い効果のクスリを求める話を思い出す。より純粋な「クスリ」は、より強い「正しさ」に似ている気がする。
「正しくなくたっていいじゃないか」と私はつぶやきたくなる、そこまで自分が完璧に「正しく」なんてありたくない。
「正しい」という絶対的な「強さ」を求める姿は、私には究極のナルシストに見える、
「より清く、正しく、美しく」と自分の純度を上げていく、大変結構なことだと思うけれど、そこにはもう「現実」がない。
「言葉」の上に「言葉」を重ねて、最後は物事の本質からかけ離れたものになってしまう、
この世界には「言葉しかない」と書いた人がいるけれど、多分「言葉しかない」世界には「真実」もない。
「言葉」だけが「人」の上へ上へと登っていくのを、私は何度見ただろう、
先日の「じえいろん」もそうだった。
世の中の襲われる側の女性は、まるで戦場の武者並みに戦い、いきなり襲ってくる相手から「逃げきら」なければいけないらしい。
あくまで「じえいろん」を繰り返す人にとっては、不意を突かれて、恐怖のあまり身がすくむ女性なんて存在しないようだ。
実際は、用意周到に計画して、万全の体制を整えて襲いかかってくる側に、思いもかけずに襲われる方が「勝つ」ことは「不可能」なのに。
相手に「用意がある」段階で、襲われる側は「負け」だ、しかし、それが「言葉」を積み重ねる側にはわからない。
「正しさの純度」とは少し離れた話だ、ただ、このふたつのことに私は同じ「むなしさ」を感じている。哀しい、と思う。
「むなしい」自分は、今、どうありたいか。
今年、あるベストセラー作家が「卵の側に立ちたい」と言ったように記憶する、でも「卵」っていったい何だろう?と思った。
「弱い側」ということか、「弱い側の方に立つ、何故ならそれが「正しい」から」ということか。
言葉ではわからないことがたくさんある。
私は、私が「好きだ」と思った人のそばに立ちたい。「正しくない」のは知っているけれど。