観察記録(その3)

ごちゃごちゃ書いているうちにだんだんとわかってきた。
私がある「お勉強」ブログを不快に感じるのは、それが受験を「する側」に向けて書かれているのではなく
「やらせる側」に向けて書かれているところだ。
「やらせる側」の心理の根底には「自分がやれたはず」がある。
しかし、難関大学を目指す「テクニック」的なものは私が子供の時期からすでにあったので、
その当時、やり方を探す「能力」がなかった、とは「やっても出来なかった」でしかない。
「やれば出来た」、とは「やらなかったから出来なかった」、ではない。
「やらなかった」ことで、すでに「能力不足」であると言うことだ。
やれば出来た「はず」は妄想だろう、あまりにも自分の能力を美化しすぎている、
「こんなことくらい自分がやれば出来たはずだ」と「やらなかった」人間が後から言うことほど醜いものはない。
「やれば出来たはず」の自分を「証明」するために自分の子供を使おうとする、「子供のため」、「教育」の名前の元に。
そこが一番許し難い。
子供を通しての「自己実現」、親向けに書かれる「勉強法」「受験テクニック」は私はある種の「自己啓発」だという気がする。
以前に「自己啓発のくだらなさ」を指摘しているところを読んで、私も「自己啓発」と言うものをうさんくさく思うところがあるので
大いに納得した。この「くだらなく」感じる部分と、親のための「子供にさせる勉強法」は似ているのではないか。
また、気がつくのが少々遅くなった、いただいたコメントの内容は全く正しい。
ただ、「冷静」を持って情報に接する人は、この言葉を使うのはタブーだろうが、「階層」によって「多い」か「少ない」かが決まる。
一定以上のレベルにある「階層」に属していればある種の「情報」も正しく伝わる人の方が多いだろう。
そこにいる人であれば周りはそんな人間ばかりだからなかなか気がつかないだろうが、
その「階層」に属する人数は全体から見れば、そう多くない。
どれほど多くの人間がある種の人にはくだらなく見えるものを支持することか、
自分の周りにいないからと言ってその手の人間が少ない、とは決して言えないのだ。
それから、「地方」の「情報」の少なさもある。
ネットなどを見て思うのは「地方」と「都会」の落差は同じアジアであっても日本と中国くらいの違いがある。
同じであって、同じではない。地方でも豊かな地方と貧しい地方とでは全く違う。
単純に「公立」VS「私立」とされても住んでいるところによって「私立」の質も「公立」の質も違う。
こういうことも「情報」を受け止める側は認識しなければならないが、それがどの程度出来るものだろう。
地方に住んでいる私には、それをする難しさがよくわかる。世界の狭さで見えなくなるものは多い。
ところで、先日銀行でとある雑誌をめくったところ、今年の東大合格者率、と言うのが載っていて、
私が驚いたのは今でも公立校出身者がその入学者の半分を占めていることだった。まだ私立校出身者は半分でしかない。
昔に比べれば、公立校出身者が少ないそうだが、それでも半分が「公立校」であるという事実は
結局「ゆとり教育が悪い」とか「中高一貫教育が大学受験にむいている」とかでは語れないのではないか、と思った。
多分、どこにいても能力がある人間は難関大学にも合格できる、
今、「私立校」の合格者が増えているのはその能力のある人間が「私立校」に集まりやすくなっている、ということなのだろう。
長くなってきたので明日に続く。考え始めると無駄に長くなる、もうそろそろやめる。