一つの意見。

親の「あり方」を云々する人は非常に多い、私もその例外ではない。
ただよく読むとその「あり方」よりは「見せ方」に重点を置いた意見の方が多い。
「親としてどう「見られている」か」を先日takopons君にご教示してもらった私だが、
むしろ親として「どう見えるか」よりは「どうあるか」の方に力をいれているのでぴんと来なかった。
要は「俺に目障りではないように振る舞え」でしかない場合が「親のあり方」を云々する人には多いものだ。
自分にとって「否定的」に思える意見というのはそれが目に入った時点で役目は終えている。
何かことをなそうとしている人にその方針とは全然別な意見をぶつける人間は力を貸そうとしているのではない、
むしろ邪魔をしようと画策している場合の方がよほど多い、こちらを不快、不安にさせればそれで相手の「用」は足りる。
だから、こちら側はそれを「見た」と言う「だけ」でその意見にひるむ必要はない、
本当にその否定的な意見が必要とされている場合はそんな意見は目に入らない、
それが「否定的だ」と「目に入った」時点で選んだことは間違いがない。
例えば「早期教育は全然駄目」という意見がある。
早期教育」に失敗する人はそれを始めようとするとき、反対意見があることすら知らない、だから失敗する。
しかし、その意見があることを確認できた上でそれでもやってみる人に失敗はない。これは確実な事実として私は知っている。
現実世界で時々私は「育児相談」的なものを受けることがあって、
たいていの相手は「相談」を持ちかけた時には、もう自分がするべきことを選んでいる。
そしてそれは常に「正しい」、「正しい」というよりは、「正しく導いていける方を選んでいる」と言ったほうがいいだろう。
二つ道があって、どちらが自分によりふさわしいか、より「正しい方向」へ導いていけるか、一番よくわかっているのは「自分」だ。
これは間違いがない、子供を育てるにあたっても同じことが言える、「普通」の親ならば子供のためになる方を本能的に選んでいる。
「相談」と言いながらこの決断を「肯定」して欲しいと思っている相手と話して、私はそれを「否定」したことはない。
そしてほとんどの人がそれでうまくいっている、まれにうまくいかなくても再び「相談」し直せばいいだけのことだ、
「失敗」ばかりしている人を私はまだ知らない、むしろ常に「成功」している人の方を多く知っている。
「相談」とは何か、私は考えてみたことがある。
私の意見と違っていてもそれを「肯定」してもいいのかどうか迷ったこともあった。
私自身も育児はまだ道半ばだ、何が言えるだろう、と思いとどまることがよいことかどうか、わからなくなった。
でもここ何年か知り合いの小さな子供達が健やかに育っていくのを見て「相談」という名の「肯定」を求める声にうなずいてよかったのだと知った。
「肯定」を求める「相談」とは私は自分が選んだやり方を「どう見えるか」と確認することではないか、と最近思っている。
どう見えたとしてもやるべきことはやるべきこととして確実に存在する、
やり方は様々にある、必ずしも見ず知らずの人みんなから見て「よい」と思われる方法なんてない。
子供が育つにつれてそれがだんだんわかってくる、子供と共に親も「育つ」、自分の経験からそれがわかる。
あるやり方を罵倒して「否定」するやり方は、これはその「罵倒」を行う側が「気持ちがいい」だけの話だ、
誰のためでもない、「自分のため」にやっている。それを他人の子供への「同情」を装いながらやっているに過ぎない。
その姑息さに気がつかない人間が、この先どのような育児をし始めるのか、私はネットで長生きして見ていようと思う。
ちなみに早期教育に「失敗した」と「言える」人は別に「失敗」などしていないものだ、
やり方を変えようと気がついただけ、育児の失敗なんて子供が生きている限りありえない、私は最近そう思っている。