「子育て」に中立はない。

ネットで育児に関して無理な要望をしてくる人間はなぜか必ず「自分はベビーカーを手伝う善人」だとか「子供が好き」だとか、
「枕詞」を述べているけれど、「子供が迷惑かけても仕方がないだろう」と続いたことがないので、こんなところでも「中立」ぶりたい病気があるものだな、と感心する。
そういう子供を「盾」にした物言いをやめにしないかな。
「俺は子供のことを本当に考えているから言ってるんだ!」ってな「カッコ付け」がなければできない意見は意味がないのに、それがわからない、
「自称子供好き」は、「ニコニコして聞き分けのいい子供の頭を撫でるのだけが好き」だったりするのだよな。
ギャン泣きする子供と一日中、過ごしても苦にならないのを「子供好き」というんですよ、当然、そんな奴、若年者にはいませんが。
で「子供好きだから善人」というのも、私は「子供好きの悪人」なんで、ない、というのも知ってる、なんにせよ、子供をネタにした修飾言葉はなくしたいものよ。
子育てに関する問題(?)でこの手の自称中立派がよくブコメなんかで見るんだけれど、結局は「子供なんて目障り」を上手に言い換えただけの意見だから、
子育て問題に「中立」は存在し得ないんだろう、というか、必要?「中立」意見って。
育児って常に前に進むものでしかないんだよね、だから「中立」が存在しても意味がない。
うまく説明できないが、育児に関して、一見理屈としては子供を持っていない人間には説得力があるように思わせることができても、
現実の育児には何の役にも立たない。でもその「理屈」は妙に残るから、ますます子供嫌いの社会は加速するなあ、くだらん世界だなあ、と年寄りは思うのであった、、、
子供の声が聞こえない世界ってそんなに理想的かな?
静かな静かな世界になるとでも?甘いね、今度は耳の遠い年寄りが叫ぶ世界になっていくよ、それはそれで私は否定しないが、私はいろんな声が聞こえる世界にいたいわ。
人間の耳って、自分が聞きたい音だけを拾うことが出来るらしいよ、(補聴器はそれができないからきついらしい)
私は常に子供の声が聞こえる場所に住んでいるが、もうなれると不思議と聞こえなくなる、多分、聞かないようにしてるんだろう。
たまに他人が来て「うるさいね」と驚かれるので、こういう機能は不便な部分もあるんだけれど、大人なんだからこの手の「我慢」を鍛えるのもまた一興。
私は一時期、聞くとそわそわした老人のがなり声も大分慣れたわ。おばちゃんたちはだいたい「慣れる」なあ。
それでも「子供嫌いの社会」には未だ慣れないこの不思議、多分、慣れたくはないんだろう。
自称「中立」、実は「子供なんて邪魔」な意見がまかり通る世界は、住みやすい世界か。私は疑問だ。