子どもに聞こえるところで「ダメだ」って言うな!

橋下の教育を「懸念する」と表明する人たちに感じるいらだたしさは、どこかで、今いる子どもたちに、「悪い事よ、おこれかし」と考えているのが
「みえみえ」の「バレバレ」であるところだ。
「ホラ、言ったとおりじゃないか、だから橋下のやることは、、」と、自分の子どもではない子どもをを踏みつけにして、
自分が「正しかった!」をやるのは楽しいか?
10年、ゆとり教育カリキュラムにまともにつき合って、私は、本当に「ゆとり教育」をダメにした人たちとは、「ゆとり教育反対派」だったのがわかる。
何をやっても「だからゆとりは、、」と、なんでも「ダメだ」「ダメだ」の大合唱。
そういう「ダメだ」の嵐の洗礼を受けて、その声を聞かされた子どもたちが「まとも」に育つか?
「どうせ、オレたちはダメなんだ」と、考えるのが「フツー」だよ、
子どもたちにはいわれのない批判の中で「それでもやっていこうよ」を育てるのは至難の業だ。
「「ゆとり」教育のだめさが何もわかっていない親に育てられている子どもはかわいそー!」って、
その「カワイソウ」な子どもにやってくれていることはなんだ?
親を締め上げ、そのせいで迷走して子どもが混乱するのを「ホラ、やっぱり、「ゆとり」の性だ」と自分の「正しさ」をほくそ笑む。
私は「ダメならダメで、それでもやっていかなきゃ、生きていけない」と考えてきた。
でも、その言葉が「正しい」とは思っていない、「じゃあ、生きていかない」と言われれば、それまでだもの。
それでもそうするしかなかったのが「ゆとりはダメだ」と言われ続けてきた親の苦肉の策、
ただ、子どもは「正しい」だけで育つわけではない、それは「正しい理想論」にしがみつく人間には見えないようだ。
と言うか、そういう「事実」は全速力で無視するのが「おまえのやってることはすべて間違いー!」の「正義派」のすることと私は見ている。
橋下派を「すべて間違い」と大合唱し、どんなことでも「全否定」して、犠牲になるのは「今」この教育現場で、否応なく、とりあえずその「政策」なるものに従わなければいけない子どもたち、
その存在を「否定」することで、「未来の子どもたちが守られた!」ってやるのは正しいか?
自分の子どもじゃない子どもを踏みつけにして自分の「正しさ」を証明するのは正しいか?
今いる子どもたちが「オレたちはかわいそうな犠牲者」と考えながら、この先、生きていくのが「正しい」ことか?
どんな無茶でも、一度決まってしまったんなら、それをどう「今」の子どもたちによりよく生かすかを考えるのが、「大人」のやること、
どんな「まちがい」からでも、そこから引き出せるよりよい「何か」をどうにか子どもに与えようとするのが「親」のやるべきこと。
それから「これから」を考える、わたしの「正しさ」はそこにある。
「理想の教育!」ばかりにかまけて、「今」の子どもたちに何を与えるべきかを見失う人というのは、自分に子どものいない人が多いように思う。
そういう人がなんで教育に口を出したがるのか、いちばんきれいな「正義」の姿をそこに見るせいか、
自分の「生活」とは何ら関係のないところにクチバシを突っ込むのは、何故なのか、私にはわからない。
なんにせよ、今、そこにいる子どもたちを守ってやれない人間は、将来の子どもたちのことも守れない。
守れるのはたぶん自分たちが「正しい」と言うだけ。
なんで一地方都市の教育行政に全国区で反発するかな?それこそが「橋下派」に利することだろうに。
石原都知事や、河村なんとかやらが、今、何をやっていて、どういう「教育行政」となってるのか、
すごい「犠牲者」が累々、って話はまだ聞かないな、いるんだろうけど。
大都会では、住んでいるところによって教育事情が激変する事実や、地方では住むところを選ぶ余地がないこと、
公立、と言っても国立教育大附属校と、普通の公立とでは、親のレベルそのほか、さまざまな点で違うこと、などなどをどれほど行政は把握しているのか、
私の感想では、行政に携わる人はその子どもだけではなく、本人も途中から地元の公立から抜け出す人が多いから、見えるものが違うんだろう。
したり顔で教育論をする人に本当にうんざりしている。まだ橋下の方がましだという気もしてくるわ、やれやれ。