今年最後のネット雑記。

はあちゅう女史の賢い復讐劇のその後のごたごたを見て思ったのは、
どうも「ネット世論を俺たちが動かしてる!」なことをしたがる集団がいて、バ○フィードがかかわっているらしいこと。
「ネットでマネタイズ」のえげつなさは、弱者擁護をとかく装いたがることで、
性暴力被害者、毒親育ち、自称貧困層出身とか、10年、この手のものをネットで見てきたが、
「飯うま!」になったのは、公的ポジションを得たその「声」の代表者格くらいで、
そこそこの地位にその代表者なるものがついたとたん、「かわいそう!運動」は失速する、
特に弱者が減った、生きやすくなった、とは言いがたく、むしろ深刻に困難な層が増えた、の実感が私にはある。
女子を売り物にしているはあちゅう女史に対してさえ、セクハラ、パワハラは許すべきではない、は当然だが、
私は今回の件を眺めて思い出したのが、かつて上野千鶴子氏が
「処女であろうが、娼婦であろうが、性犯罪被害者は同列に扱うべき!」(大分、私が意訳)の主張をしたことで、
それは確かに正しい意見だが、私はどこかに引っかかりを持っていた。
ここ何年か、その引っ掛かりがどこにあるか考えた結果、
「同じであって同じではない、他人が同じにしてはいけない」の結論が出た。
これは沖縄の少女強姦事件に端を発した発言だったと思うが、
被害にあった、まだ普通に異性と付き合った経験がない年齢の少女と、職業として性産業に従事している女性を
「同じ」と考えてはならない、ましてや、「外野」が、と、
「それは同じ痛みだ!」とすると、少女側が犠牲にされてはいないか、「正しさ」のために少女の心を殺してもいいものか、
少なくとも、少女は初めての経験を自分で選ぶ真っ当で当然の機会を奪われている、そのことを決して軽く考えてはならない、
「同じだ!」と他人が叫ぶことの暴力性をもっと考えるべきではないか、と思っている。
はあちゅう女史のこれまでの武勇伝ともっと深刻なハラスメントを同列に考えるべき!とネットで主張するのは、
すねに傷を持ちまくる連中たちであるという現実に、深刻なハラスメント被害者はより傷つけられる、
被害者は連帯すべき!と言うのは、ろくでもないことをかねがねやってきた人間たちであるのにはあきれてしまう。
被害を乱暴に一括りにするのはより大きなハラスメントだと私は感じている。
何でまた、この手の人間は、こうも繊細さにかけるんだろうな、
やはり「力」を他人に振るいたがる性向を持つからなんだろうな、と思ったのでした。
「被害に大小はない!」は一見正しいが、感情を扱う件において、その強引な乱暴さは見逃してはいけないと思うのでした。
こういう感情が絡む事柄で一挙両得を求める人間の強欲さはやはり見苦しい。彼らにかかわりたくない、と切に願う。