雑記。

「じえい」云々の話は、未だにおかしなことを書く人もいるようで、「どこまで続くぬかるみぞ」の言葉がふと。
拾い読んでいて感じたのは、「人」を知らない人が「じえい」「じえい」と言いたがるんだろうなあ、
この手の人は「人」が見えていない気がする、その言葉を浴びせられて、痛みを感じる「人」がいると言うことがわからない、
「人」の心の痛みが感じ取れない、そんなことを言われたら、どんな気がするか考えつかない、つまり、やはり「人」ではないと言うことかなあ。
ことさらに斜め上から見下ろして、その無意味な言葉を「冷静」であるとか「切れのいい言葉」であるだとか、
人から「思われるに違いない」と信じて疑わない、実のところ下世話な「いっぱんろん」を繰り返しているだけに過ぎないのに。
「いっぱんろん」という化け物に身を捧げることで、自分は「守られている」と信じたい気持ちはわからないでもないが、
守られなかったときにどうするか、その想像力がないのだろうな、「私は決して被害者にはならない」は究極の「おまじない」だよ。
以前「客観を装った主観」という言葉を書いたことがあるのだけれど、こういう人は実は「主観」すらないんじゃないんだろうか。
はっきり言って「自分」がない、「自分」はなくて、あるのはありふれた言い回しで表される「人」と思われる「かたち」、
「いっぱんろん」を攻撃されると「自分」という「かたち」がなくなるものね、必死になってその「いっぱんろん」にしがみつくしかない。
「いっぱんろん」って時々既製服のサイズのようだなあ、と思う。その設定されたサイズにぴったりあう人なんて本当に存在するのかどうか、
多くの人のデータから平均値を導き出してもその平均値通りの体型の人なんてなかなかいないんじゃないか、
そもそも、そのサイズぴったりであってもその服がその人に似合っているかどうか、なんて書くと、なんの例えにもなっていないな。
ただ、メーカーによってそのサイズ設定が違うように「いっぱんろん」も微妙に違うんだよね、
その「違い」が「自分」だと信じている人がいるのかな、実は「いっぱんろん」に隠れる「自分」すらない、そういう存在に何かを教えるのは無理かも。
「自分」がないから「主観」さえ「ない」、「ない」ものはかえられないのだよな。
でも、今回の件で曾野綾子がどれほど酷いことを書いたかはちゃんと浸透したようで、それだけでも大きな収穫だと思う。
あれほど酷いことを書く人とは思わなかった。
死者をむち打つ、それ以上に死者の遺族をむち打つことを平気で公言できるその鈍感さにぞっとした、私は2度と曾野綾子は読まない。
この冬、どんな気持ちで年の瀬をご遺族は迎えられるのか、
本来ならば大学生になって初めてのお正月に帰省して、多くの楽しい経験を家族に話して聞かせてくれただろう。
帰ってくる子どものためにお節料理や、お年玉を用意する、そのごく普通の喜びを奪われた人に、何が言えるんだろう。
私は少なくとも「自衛しないから」などとは言えない。
もの書く人には人が見えないのか?と、痛切に感じた。人が見える人の書くものだけを読みたい。