雑記。

読みに行く日記のコメント欄が異様に長くなっているのをちゃんと読む人っているのかな。
よほど興味のある話題ならともかく、私は私が話題になっているところでさえ半分で捨てる、(後で読んだけど)
自分のところに書かれたのだって、気に入らない人のは読まないなあ、でも読まないといけないモンなのかな。
大野先生のところの長い長いコメント話は終わったらしく、まあ良かったね、なんだったんだろう、あの熱意は、
で大野先生が紹介されていた、「自意識が自意識で自意識であるが故に自意識はまた、、、」(私流に翻訳するとこんな感じ)、
とちょっと人を食った楽しい日記を読んで面白かったんだけど、私はネット上の議論ってどうよ?っていつも思う。
つか、「議論」になってないし。少なくとも9割方、なってない。
ディスカッションでもディベートでもいいけど、本来は相手を完膚無きまでにたたきのめすってことでしょう、
それが「議論」の目的。一つの意見があってそれに完全に「ノー!」というのが「議論」の基礎。(と私は思う)
相対する人間を何があってもこてんぱんにやっつける、ってのが議論のやり方と私は教わったけど
(だから上野先生の「あほんだらあ、議論(論理だっけ)ってのは力業じゃあ!」はすごく正しいと思う)
これ、「日記」でやることじゃないでしょう、基本的に「日記」は何でもありだもの。
「議論」のやり方、2者択一、どちらが「絶対善」で「絶対悪」かを決めるのって、キリスト教的考え方だよな、
と私はずっと思っていて、最近になって、なんでこういうことをするかと言えば
進むべき「方向」を決めるためにやるんだよな、とわかってきた。
「善」と、とりあえず判断された側ですべての人がやっていく。(努力をする)
まあ、これはこれでありと思うがそれを「日記」でやるってのはどうよ?とやっぱり思う。
そこまでやる必要ってあるか?議論でどんな結論が出るの?消耗してるだけじゃん、お互い。
なんかあんまり意味がない。歴史認識とかその他確実な「事実」があってそれ認定するための議論は
いいんだけど、それでも負けた方は全然納得してないよね、だからなんの意味もない、私はそんな気がする。
私が最近好きな日記は仏文を専攻する大学院生の方のところで、実に美しい言葉を使われるので
この人の日常の感覚をもっと知りたいなあ、と思ってるんだけど、
同じ大学らしいおかしな連中に議論をふっかけられてお疲れのようで、
もういいじゃん、この連中、うらやんでるだけだよ、あなたがちゃんと書ける人だから、
とコメント欄に書いてあげたくなる。(よそで議論してるようなんで何が話題になってるのか知らんのだけど)
あなたのきれいな感覚を私はもっと知りたいんだよ、日常、何が気になって、どんなことを考え、感じ、
それがどんな風にあなたの使う「言葉」に影響をあたえているのか、
あなたが真面目に相手している連中はその価値のない馬鹿な奴らなんだよ、それに「言葉」の意味さえわかってない、
本当に同じ大学?大昔に「天ぷら学生」って聞いたことがあるが、それと違う?
連中に必要なものはまともな精神科医が処方するお薬だよ、たいていの心の病は最近お薬で治るらしいからねえ、、
なんだかなあ、日記をつけるのやめないでくれるとうれしいんだけど。
ほんで、アホの相手はほどほどに、と言うか全然やめときな、もったいないよ、とこっそり。
この人は「恋人」という言葉を恥じらいとともにさらりと書く人なんで私は今、すごく好き。
でも、まあおばはんがそんなことをわかるように書くと精神病学生の相手をするよりがっくりきそうなんで、やめとく。
書きながらずっと前の南海キャンディーズしずちゃんと妻夫木くんのCMを思い出した。
私はしずちゃん、、、(特に意味はない。)
追記;「勝ち負けにこだわる人と議論したくない」てなおかしなブクマコメントを見たんだけど。
ここに「勝ち」「負け」の「価値観」を持ち出すこと自体が
「負けたくない!」と自分が考えている証拠じゃないのかな。
私は一つの「絶対観」を打ち出すことが「議論」の「結論」と考えているんで
そこに「勝ち」「負け」が存在するとは思わない。
「勝ち負け」に「こだわっている」のはえっけん君のほうじゃない?いつも変なこと書くね。
追記2;「たたきのめす」って言葉が悪いか。
「議論」の「手法」として相手をの言ってることを一つ一つ確実につぶしていく、てな教わり方をしたんで
あんまり「勝ち負け」にかかわる言葉じゃないんだけど。
日記はあくまで「主観」の場、が私の考え方なんで。それは今までも繰り返してきたと思うけど。