長くなる(予定)の話。(その1)

「悪意」について、興味深い考察を読ませていただいて、ついでにブクマものぞいて
「悪意」のとらえ方が人それぞれに違うもんだなと思う。
私は意識した「悪意」はそれほどおそれるものではないと考えているので、
「悪意」がいつから生まれるかに興味を覚えられる方とは「悪意」の言葉の趣がやや違うと思う。
私が深刻に受け止める「悪意」とはそれを発する人間が全くそれを「悪意」と認めないもののみだ。
たとえば、「あなたのこうした働きかけが不愉快であった」、と相手から発せられたなら
もし、「悪意」というものが本当に不在であれば、「自分には悪意がなかった」と主張するよりも、
まず、相手が「悪意」と感じた自分のしたことに対して謝ることが出来ると考える。
しかしそれをする人はまれで、たいていは自分には全く「悪意」がなかった、
それを「悪意」と受け取るのは相手が悪い、と、「意識されない悪意」を進ませていく。
「常に自分は正しい」「正しい私を否定する人間が悪い」「悪い人間が不愉快になっても当たり前だ」
「悪い人間を不愉快にさせた私はやはり正しい」と、この自分の尺度の「絶対観」、
自身への完璧な信頼感を私は嫌悪する。これはもちろん私自身も持っているものだから。
いじめの「いじめられた方が悪い」の発想もここから出るものではないのだろうか。
深刻ないじめは相手に悪意を抱いてするものより「悪い」と見なした相手に「懲罰」を加えるという
「私がすることは絶対に正しい」の陶酔感がエスカレートさせるものではないだろうか。
「正しさ」への人間の欲望は恐るべきものであって、
だから私は基本的には「善」を求めるための「議論」と称するものが好きになれないのだろうとも思っている。
「正しさ」をどこまでも追求することは「狂気」にも似ている。むしろ「狂気」そのものだと私はおそれている。
「私は正しい」という意識が抑圧する自分の中の「悪意」、自分が「正しい」ことを信奉するが故に
認識されない「悪意」は一種の「狂気」だと私は感じ、それを持つ人間から遠ざかりたいと願う。
そのような「狂気」は自分の分だけで手一杯だ。
ここから最近読んだ「議論」の話にうつる。
私が読んだ「議論」についてのある人の考えは緩やかで好ましいものだ。
「自分」という絶対の尺度を他人にあてることなく言葉に同じ概念を持たないものであっても対話は可能だと、
私もその意見には納得する。等しく人を人としてみることの出来る人の臨む議論の展開に不毛はない。
しかし、相手に相手が決して認めることのない「悪意」が存在していた場合、
「議論」は泥沼に陥ると私は見ている。
結論が「おれ、正しい、おまえ、悪い」であれば「議論」などするのは時間の無駄ではないだろうか?
相手を受け入れるなんの用意もしていない人間に何かを呼びかけたとしても
少なくとも呼びかける側になんのメリットもない。
呼びかけたくて呼びかけたのではなく相手の呼びかけに答える形で始めたのなら余計むなしさが募るだろう。
また、明らかに知識、知性が劣っていると確認できる相手と「議論」をするのは勝っている相手側に益はない。
相手が愚かであると確認できるだけの話だと私は思う。
同種の知識、知性、同種の言語理解がなければ
真剣な「勝ち、負け」のかかった「議論」にはならない、のではないか、
また、相手に対する深い尊敬の念がなければどちらかが「負け」て相手に譲らなければならない場合、
心から納得することはないと、これは「議論」に対する私の「理想」論だ。
「勝ち」とは相手を説得できること、「議論」の「結果」へのこれも私の「理想」。
かたくなだといわれたらその通りで、しかし私はこの立場を変えることはない。
私は「勝ち負けにこだわる」とは次元の違う話をしているつもりだ。
(長くなったんで、明日に続く、、予定)