長くなる(予定)の話。(その2)、全国学力テスト結果への感想付き

色々考えると「悪意」が生まれる、と考えるより「害意」が生まれる、の方が私にはぴんと来るなあ。
それはともかく、「議論」するとき、明らかな上下関係(社会的立場、あるいは知識量)があったとしても
双方に「有益」と考えられるものもある。たとえば師弟間の「議論」がそうだ。
真面目な学生が己の迷いを整理するために尊敬する教師に「議論」あるいは「対話」を求めることで、
知識、あるいは知性の継承が始まると私は思う。
また、馬鹿な学生がその愚かしさ故に教師を簡単に侮って「議論」を持ちかけたとしても
教師はどちらが上であるか、「教える」ために相手をする必要がある。
その後の教室運営にかかわることなので生意気な学生は「きゅっ」と締めてやった方がいい。
「議論」は教師の「義務」でもある。「議論」で生徒の信頼を勝ち得られたら教師にとってもそれは「有益」と言える。
教室で起こった議論であれば、それを通じて集団が親密になる可能性は大いにあるのだから不毛ではないだろう。
それから永遠に終わりそうにもない「歴史認識」についての「議論」(らしきもの?)、
たとえば「南京大虐殺事件」や「従軍慰安婦問題」は特に「肯定派(?)」「否定派」の「論争」とされるものなど
一見、「不毛」に見える。
知識の量も知性の示し方も、世間一般の専業主婦としての常識しか持たない私の目から見ても
「否定派」に疑問を抱かざるを得ない。
ただ、ほとんどかみ合うことのない対極を眺めて感じるのは
まだ「否定派」の本を読んでいないので断言できないが、双方の「正しさ」の求め方が違っているということだ。
「肯定派」は良心を持って歴史的「事実」を「正確」に「検証」しようと努めているのに対して、
「否定派」はあくまでかつて「あったはず」の「美しい日本」の「正しさ」を追い求めているようで
このような「対話」を果たして「議論」と呼ぶのかどうかはなはだ心許ないが、「意義」がないわけではない。
私はかつての国が何をして、何をしなかったかを考える機会を与えられた。
この「論争」とされるものに接近することで様々な人がそれぞれの意見を持つようになっただけでも
「有益」だといえる。永遠にお互いがかみ合うことがなくてもその「存在」自体に意味のある「議論」もある。
ところで私は「歴史認識」という言葉を考える度にふと歴史とは「パズル」の「絵」みたいなものじゃないかと思う。
それぞれピースを持ち合って描く「絵」ではないか、永遠に完成することのない、
また厳密に言うと「正確」でもない「絵」をとりあえず後世に残す。
ピカソに「青の時代」があるようにこの時期の「歴史」の絵はこの色が強い、とか
そういうことをもっとずっと後の人間達が話し合うようになる。
ずっと後世にこの色が足りなかった、と絵に色を加えることも出来るかもしれない、
でもそれが正しいことかどうかわからない、人間が存在する限り永遠に描かれ続ける絵を私たちは眺めている。
写真のように出来る限り正確な「絵」を後から来る人間に残しておきたいと私は思う。
最近人気のある「歴史認識」とは「印象派」が多い、私は出来れば歴史は「写実主義」であって欲しい。
(と、これはまあ、私の希望的「主観」)
話が歴史認識まで飛んでしまったので、出来ればまた元に戻る。
このまま、まただらだら続く、かも。
ところで。
国学力テストの結果が公表された。詳細はよく見ていないがどうもの北の地方が上位、
最南端の沖縄が下位の結果が出ているようだ。
これは、つまり「家」制度がまだ強く残っている北部に学校教育そのものが有利に出来ていることの証明であるように私は思う。
冬場の自然の厳しさが「家」制度から離れては生きていけない状況を作り出している、
それが子供に行き届く「手」が足りるということになって、今の学校制度を支えて
「教育」を定着させる要因になっているのではないのだろうか?
かつて私が住んでいた高知県も下位に入っているようだ。何となく女性が社会で働く率の多い県では不利な結果になったような、
給食費の公的給付の関係なども取り上げているようだが、母子家庭の多さ、など、
今の学校教育制度が暗黙に「家」制度を巧みに利用している「現実」を直視して欲しい。
「世間」は安易に「専業主婦バッシング」に走ったり、そうかと思うと「専業主婦家庭の子供の方が成績がいい」と持ち上げてみたり
あるいは世帯年収の違いを問題にするより、むしろ根本的に変わりゆく社会の中での「教育制度」の在り方をもっと考えて欲しい。
ワトソン博士並みのくだらない差別意識に結びつけるのではなく、「政治的」にこの結果をゆがめるのでなく、
もっとこれからのテストの在り方とともに、本当に子供達の役に立つ答えを求めて欲しいものだ。
徳育」の「教科書」を作って「数値」を出せば「モラル」が高まるように考えている「教育再生会議」とは
任期の途中で政権を投げ出すような総理大臣がお作りになられたように思うが、
その元総理大臣の「更正」に「徳育」の教科書が役に立つかどうか試してみてから、「提言」された方が
よりよい結果が得られるのではないか?仕事を途中で投げ出す人間に「モラル」を強く求められるとは、
ふと「弱者暴力」の言葉を思いだすなあ、、
うちは上が中学3年、下が小学6年と名誉ある第1回目の全国テストのメンバーであったのだが、
上の中学生曰く、
「帰ってこないテストなんて中学生はみんな真面目にやらないよ、結果がちゃんと出るのならやるけど」
私にとって意外だったのは今住んでいるところの中学の方が平均正答率がよかったこと、
小6の方が思ったより悪かったなあ、、
そうそう、女性問題関連の図書の排除をした「福井県」がよい成績だったようだ。
この学力テストの結果が悪用されなければいいが、、、
女性差別」につながらないようにこの先、よく見張っておかなければいけない。
また、安易に「弱者を救え」などとワトソン言説を「政治的」な「排除」とほのめかす輩が
この結果をゆがめて考え、見下し目線で今の子供達を眺めないようにも見張っておかなければ。