長くなる(予定)の話。(その3)

ふと、「南京大虐殺事件」も「従軍慰安婦問題」も意識されない「悪意」が引き起こしたと考えた。
戦争犯罪とされるものはほとんどが「悪意はなかった」と弁明される、「戦争」だったから、「仕方がなかった」。
私が従軍慰安婦問題でもっとも唾棄すべきものと考える言説は「売春婦だったんだから当然だ」というものだ。
生まれながらの売春婦なんているものか、誰が「売春婦」を作り出すのか、
「売春婦をどう扱おうがかまわない」などと、この考え方ほど許し難いものはない。
女性全体に対する侮蔑と私は受け取る。売春婦に「させた」ものがなんであったか、
そのような弱い立場の人間をさらにおとしめる、「悪意」を全く意識しようとしない愚鈍な輩達が
国際的な非難を浴びた「虐殺」事件を起こしたのだと思う。
引き起こした側はそれを「虐殺」だと認識しなかったのではないか、
無辜の殺戮を「悪意」と思わなかった、これが戦争の恐ろしさだろう。
「正しいことをしている」と信じて疑わなかったに違いない。敵を殲滅することこそが「正義」だったのだから。
私は「自分は悪いことをしている」という意識のある「害意」はそれほどおそれることはないと考えている。
人は弱いので、「悪い」とわかっていることをやりすぎない程度の「自意識」がある。
子供でも「悪い」と思っていることはたいてい1人でやろうとする、徒党は組まない。
これだけでも意識された「悪意(あるいは害意)」はたいしたものではない。
「悪意」を「意識する」とはどういうことか、これが私は「モラル」だと思う。
「モラル」とは「内省」のための「尺度」で、他者に対する「配慮」でもあるのではないか。
私はネット上で「モラル」の言葉を持ち出す人達をみかけているが
その「モラル」の使い方で言葉そのものの持つ本質にまで近づけていた人は多くはいない。
どうも「モラル」とは「モノ」の「名前」のようで、相手に圧力をかけるための「道具」と考えられているようだ。
このような用法はこれだけではない、「中立」なども同じ使われ方をしている。
「モラル」が他者を圧迫するためだけに用いられる「道具」でしかないのなら、もうそれを「モラル」と呼ぶことはない。
何か別の「モノ」の「名前」だ。
私は「モラル」とは「宗教」と同じく、人間が他者と共によりよく生きていくことが出来るよう試行錯誤を経て作り上げられた「意識」だと思う。
他人をその「尺度」ではかるのではなく、自分をその「尺度」にあてて行動に枷を与える、
いわば「良心」ではなかったか。
「良心」という名前の「自意識」が「モラル」だと私は考える、故にそれは他人から押しつけられる「モノ」ではない。
「議論」を求めていると「装う」人間が最終的に持ちだしてくる「モラル」を見ると私はうんざりする。
「正しくありたい」と願う心が内省を行うために用いる「モラル」を、
何故か自分の中の「悪意」を意識しない人間が自分の気に入らないものの排除に用いようとする。
「議論」の最終兵器、「モラル」とでも呼びたくなる。
「悪意」から「議論」、それから「モラル」までとりとめなく書いてきたけれど、
いい加減飽きたんで、もう明日でおしまいにします。