長くなる(予定)の話。(おしまい)

「議論」の考え方を読んだところでは、学校制度の在り方、ひいては社会の在り方について討論されていて、
すべてに目を通したわけではないのだけれど、非常に興味深かった。
そこでは「学校」のとらえ方がそれぞれに違っていて、「学校」をいわば「収容所」として感じられる方の意見も
やはり「学校」は万人が知識を継承する「装置」であると考えられる方の意見も私には納得できた。
実際に学校に通って、今子供を学校に通わせている私としてはどちらも正しい意見だとこっそり思う。
異なる家庭、異なる個性を持つ子供達が一つの集団に押し込められることで、
「社会性」というものを身につけていく子供、それが窮屈に思われてならない子供、
私は色々いていいと思うし、実際色々な子供が存在する。
窮屈に感じながらもあわせてしまう子供が多い中で、どうしても耐えきれなくて飛び出していく子供に
現実の社会も学校も冷たい。少数派であるのと、飛び出してしまえる彼らの一種の「個性」をねたんでいるかのようだ。
私はそうした子供も等しく一個の「存在」として受け入れる意識を持つべきだと考える。
しかし、彼らから何故そのような「収容所」に子供を通わせているのだ、そのようなところにいては子供が悪くなる、
(と彼らすべてが実際言ってるわけではないと思うが)といわれては、少々困る。
学校、というところがある意味そういう側面を持っていることを了解した上で私は子供を学校に通わせているのだから。
これを一方的に「悪い」と言われては私は反発する。
現実的に考えて、出来うることなら学校に通わせていた方が子供にとっても親にとっても今の社会は生きやすい。
生きやすいための「技術」を身につけるためにもやはり私はあえて自主的に「選んで」学校に通わせる。
その「意志」を全否定する権利は誰にもないはずだ。
「あなたは行ってもいい、でも私は残る」のその意志をお互い尊重しあえたらいいのだけれど。
私がネット上で「議論」というものをしようと思わないのはネットでは色々あっていいと思うからだ。
「学校」にかんする「議論」は比較的節度を保って言葉を交わされていたが、それでも感情的な部分も見られた。
これがネットにおける「議論」の限界だと私は思う。感情を露わにせずにはいられない、基本的にネットは仮想空間だ、
現実世界ではしないような激情の吐露も簡単にできる、最終的には個人的尺度の「好き」「嫌い」の「主観」が尺度となる。
たとえば私の書く「日記」を「児童ポルノ」よりも「有害」で規制すべきだと考える人がいる。
私の日記に書いたものが気に入らなくて私を「処理する場を設ける」などと書いた人だ。
彼は「児童ポルノの規制」に対しては「お子様至上主義のまっとうなお父様お母様たちによるファシズム」と
ブクマコメントをつけているが、この内閣府が行った調査は
「子どもたちに悪影響を与える恐れのある情報に関する国民の意識を調査し、今後の施策の参考とする」ため、
9月13〜23日に全国の20歳以上の3000人に対し個別面接で実施した。有効回収数は1767人」
と、格別「お子様至上主義のまっとうなお父様お母様」「だけ」を対象に行われたものでもないようだ。
これを強引に「お子様至上主義のファシズム」と結びつける人の考え方と
アンケート作成者の結果への恣意性、あるいは作為性はそれほどかわりがないと私には思われる。
それでも「意見」は「意見」だろう。ネットでは正しく認識できなくても書くことは出来る。
そして、「好き」「嫌い」の尺度だけで「児童ポルノ」より私の日記を「処理すべき」とも書ける。
ちなみに私は二人の女の子の母親だが表現の自由は守るべきなので「児童ポルノ」の規制に賛成はしない。
さらに誤解がないように書いておくが、私は子供達を「児童ポルノ」の対象にしようとは決して思わない。
あくまで「表現の自由」は守られるべきだと考えているだけの話だ。
こうしたものの表現を規制しても大昔から一定数いる幼児性愛者をなくすことは出来ない。
むしろそういった性向を持つ人間をこのような「児童ポルノ」の「表現の自由」を生かしてゆっくり研究すべきだろう。
犯罪にまで向かわせることがないように、こうしたもので彼らの性向が昇華できるように考えるべきだと思う。
このように考えている親の方が実は世間にはずっと多いんじゃないだろうか。
しかし、この件について私は「議論」しようとは思わない。自分の日記で自分の意見を書くことはするが、
基本的に感じたことを好きなように書いてもいいはずだろう、そしてネットである限り当然、それへの反応はある。
それが「議論」というより様々な意見を並べる形になっていればいいと私は思う。
児童ポルノ規制」は許せても他人が自分の気に入らない「主観」を書くことが許せない、それも意見だ。
どの意見でも残しておくのは自由なことだろう。ただ「議論」にはならない。
オチがないが、もう飽きたので、とりあえずおしまい。