雑記。

昨日、子供のネットでの「いじめ」について少しふれた。
このことに関しては2年近く経つ今も痛みを覚えている。
どれほど、子供が我慢強く友達をかばうか、そのために限界まで自分を精神的に追い詰めるのを、目の当たりにして、
子供の自殺を決して私は人ごととは思えない。
あのとき、子供が自室であのようなメールを受け取っていたら、そしてそれを親に言えずにいたとしたら、、と私はぞっとする。
1人の世界を持ち始める時期にネットのような別世界をもってしまう危険を私ははっきりと知った。
家では中1と高1の子供に携帯のメールも、パソコンでネットも、リビングで、時間を決めてしかさせていない。
携帯メールは何時までと決めて、相手のお友達にもそのことを伝えさせている。
それでも夜中にメールを送って来る子供もいて、その時間にまだ起きている、メールを送る孤独を私はさびしく思う。
「自由」と「規制」は難しい問題だ。
匿名メールでの攻撃は上の娘が被害にあった頃に、他の子供も受けて、中学校でかなり大きな問題となった。
それをやっている子供がはっきりしていたので、「匿名」であっても警察には「わかる」と学校で伝達したらぴたりと止んで、
メールが「匿名」である故に、はしかのように学校に広まった子供達の疑心暗鬼の熱もさめた。
裏サイトでの問題はまだ私は直接には知らない、
特定の子供の住所電話番号を晒すことがあって、それは学校が対応したと聞いた。
子供をどこまでもかばうことは無理だとよくわかっている、でも、出来るときには出来るだけのことをする、
「見守る」だけでは足りない場合も多くある。ネットを使ったいじめは、ある程度そうだろう。
しかし、どれほど外野が騒ぎ立てることか、
「子供の喧嘩に親が出る」、その「揶揄」があるために子供は自分の置かれている状態を極限まで我慢する。
子供はプライドが高い、「いじめをされている」と親にしられることを心からおそれる。
その事実が親をも苦しめることを子供は肌で知っている。
「私さえ我慢しておけば、、」、言葉に出さなくても、子供がそう思っているのが私には痛いほどよくわかった。
「いじめられていることは恥ずかしい」、その意識をどうして子供は持ってしまうのか、
多分、圧力をかけられるのだろう、「いじめられるおまえの方が悪い」と。
いじめがあってから1年ほどたった頃、新聞に「いじめられた子供がいじめをする」の記事があって、
それをも見た娘はぽろぽろ泣いて「私はそんなことはしない」と叫んだ。
「あんなひどいことを私はしない、絶対にしない」、
1年経ってもまだ、「いじめをされた」という記憶は娘の心を傷つけていたのか、と私も泣いた。
決して娘が悪いわけではなかった、娘は当たり前のことをしただけだ、
自分がかつて転校生だったように、中学2年から転校してきた剣道部の友達をいじめにかかった子供達からかばっただけだ。
その顛末には様々な事情が絡んでいるのでこれ以上は書かない。いつか整理できればきちんと書いておきたいと思う。
この先、ネットといじめは複雑に絡んでいくだろう。
私は「規制」に賛成しないが大人としての「介入」も時には必要であり、
ただ「見ていればいい」とだけの対応が主流となるのには異論を唱えたい。
立場はそれぞれに違う、そのことは覚えておいて欲しい。
いじめが収束したあとも、娘を気に入らない子供に「いじめられたくせに」とひそひそと言われたと私は娘以外から聞いた。
こんなことを日記に書くと「結局、娘に信用されていないんじゃねーか、バーカwwwww」と、
たいそうご立派な方から「指摘」があるかもしれない。
その通りなのかもしれない。他人をいきなり「バーカwwww」と書けるほど立派な人の言葉に間違いはないだろう。
それでその「指摘」をして私に何をしてくれるんだろう?
「いじめられた子供」と「その親」をネットでも外野が追い詰める。
子供が苦しむ姿を見て一緒に苦しまない親なんていない。
苦しむ親の姿を見たくない、と願う子供がいることを私はよく知っている。
私は、ネットといじめの光景はよく似ていると感じる。そのことについてもまたいつか書いておこう。
娘が「死ね死ねwwww」メールの攻撃にあって体調を崩し、学校を休んだその日のうちに、
最初にいじめられていた転校生の友達が職員室に駆け込んで、「(娘の名前)さんがいじめられています、私のせいです」と
泣きながら先生に訴えたことは忘れない。
「いじめ」って、結局、誰のせいなんだろう、今でも私はわからない。