お答え。

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「理屈には理屈で返せ」とは「罵倒には罵倒で返せ」と変わらない「理屈」だよなあ。
相手の「罵倒」は「論理的」だから「我慢しろ」と、大野さんがそこまで彼に入れあげる、「理屈」よりは「行動」の方が私には気にかかる。
彼を「論理的」と持ち上げるのは何故なんだろう、私は彼が「親子関係」に関して書いたものに「現実感」を感じたことがない。
例えば「世界に一つだけの花」が何故学校現場でよく歌われるかについて、実際子どもを学校に通わせている人の意見に
徹底的に「理屈」っぽい「罵倒」をくり返しているのを見たが、学校現場を知っている私からすればそれは「論理的」でもなんでもなかった、
彼は「机上の空論」をもてあそんでいるにすぎない、と私は理解している。
と、言うか、相手との「対話」が必要ならば、何故それなりの「丁寧」な「手続き」を踏んでこないのか。
意味のない罵倒を、「それは論理的だから許されるべき」などと言う「感性」的な言葉で諭されても、私にはピンと来ない、
「罵倒」はただの「罵倒」、それ以上でもそれ以下でもない、「あなた」が「気に入る」罵倒であっても、「私」は「気に入らない」、
いきなり意味のない「罵倒」をされて不快に思う「感性」を批判される覚えは私にはない。
「論理には論理で返せ」?なら、「罵倒には罵倒で返せ」も保証されていい「権利」では?
私にわからないのは、何故相手の土俵に無理矢理上がらされて「議論」なるものをしなければならないのか、
的外れの「罵倒」をしてくる人間に「丁寧」な「議論」をしてあげるほど、私は親切な人間じゃない。
何故、それがこちら側に「だけ」求められるのか。私はあいにく彼を「丁寧」な「対応」にふさわしい「論理的」な人間だと思ったことがないな。
根拠なくナルシストである彼が「俺っていけてる?」と、ブクマを集めて目立ったエントリに絡んで、
「罵倒できる俺って超かっこいいって感じ?」と、安っぽいプライドを自慢しているようにしか見えない。
私はあいにく彼が他人に絡む以外のエントリを書いているのを見たことがない、誰にも絡まずに一本記事をあげるまともな「能力」が彼にはない。
彼に入れあげる「行動」を起こすのは大野さんの勝手だけれど、同じ「行動」を私に求められてもな、が私の意見。
あなたの書いていることは「中立」に立っているわけでもなんでもない、
ただ「中立」を装って自分の「感性」を保証しているにすぎない、と、ま、これも私の「感性」、「議論」する気はないんで。
「思ったことを書く」「知っていることを書く」が「出来ない」のは何故なんだろうな、
何故人が常にネットで「議論」を求めているように考えられるのか、そこまで人間、「ヒマ」ではないでしょう。
「罵倒にばかりとらわれて、論理的になれない人間」と見下されても、申し訳ないけれど、私にも相手にする人間を選ぶ権利があると思っている。
「消毒」君に「相手」に選ばれて「名誉に思え」的な、そのような「感性」を私は持ち合わせていないんで、
それを責められても、私にはどうしようもない。
私は「理屈」がどのような「感情」から発しているか、そこに目を向けないことに驚かされる。「理屈」にも「感情」があるものね。
「男と同じやり方でやりかえさないと男に認められませんよ?」的な、ジェンダー論者がそんな古い感性では救われない、
私はある種の「男」に「認められたい」なんて欲求はもっていないな。
相手の「土俵」に上がっても「仕方がない」場合も「ある」、とこちらが考えていることは「認められない」ものなんだな、、、、