ことば。

五十嵐大介の「PETRA GENITALIX」の中に
「一度も空を見たことがない人が「晴れた空は青い」と言ったら、言葉は間違っていなくてもそれはウソなんだわ。」の台詞がある。
子供のことを書くことが「自尊心を満たしたいためだけ」と考える人がいるのを知って思い出した。
私はネットで子供に関することで、言葉は正しいがどこかが違う、と感じることがよくある。
現実に「母親」をしている側にはわかる、それが何故なのか、
本当に「子供」のことを考えて書いているのではなく「子供のことを考えている」と思われたい「偽善者」が書いているからだ。
実際に子供のことを「知っている」かどうかはどちらでもいい、「知っている」と他人に認められればそれでいい、
「知っている」の「力」を渇望している、その「力」への信奉ぶりは哀れだ。
「私は空を見たことはないけれど、晴れた空はきっと青いと思う」の言葉にウソはない。
空を見ている人間はそれを受け入れる、「晴れた空は確かに青い」と保証する。
でも空を見たことがない人間がそれを隠し「晴れた空は青い」と言ったとき、
空を見ている人間が「本当に晴れた空は青いの?」と聞けばきっとその「知ったかぶり」は激怒するだろう。
自分の「知らない」事実が指摘されるのを心の底からおそれているからだ。
昨日、またこちら( 消毒しましょ! - 今度は「母親偉い」メソッドかよwww http://d.hatena.ne.jp/AntiSeptic/20080623/p6)から
トラックバックをいただいた。
彼は自分の罵倒が自分の偽善を隠す稚拙な方法だと私に「見抜かれ」てひどく動揺している。
私は対話の出来ない相手の言葉に傷つくことはない。
彼の言葉は「幽霊」のようなものだ、初めてみれば一瞬驚く、でも実体のないものに大人はいつまでも驚かない。
真実を話すことの出来ない人間になんの価値もない、発した言葉は空しくまた彼に返っていくだけだ。
彼は自分が「偽善者」であることを人に知られるのを一番おそれている。でも隠せていると思うのは彼自身だけ、もうみんな、気がついている。
空を見ている人間は空が晴れて青いばかりじゃないことを知っている。
大荒れの空の恐ろしさ、夕焼け空の切ない美しさ、空の様々な「生きた」表情を知っている。
空のことを「知って」いるかのように振る舞う人間は、本当の空を見たとき、晴れて青くなかったら、それを「空」だと認めることは出来ないだろう、
知ったかぶりな自分の「卑小」さを受け入れることは出来ないだろう。
子供のことを思っているかのように書く偽善者が、現実に母親である人間の実のある言葉の群れに出会うと、
自分の「ウソ」や「偽善」「自己満足」を見抜かれることをおそれて罵倒せずにはいられない。
知っている側は相手の「偽善」を「見抜いて」も指摘するほどのものではないとわかっているから攻撃などしないのに。
本当に大切なことは「知っている」と言うことではなく「真実」を語れるかどうかだ、
知らないことを知っているかに見せようと、言葉を並べることではない。
晴れた空は確かに青い、でも見たことのある人が語る「青さ」と、知ったかぶりでそれを言う「青さ」はまるで違う。
それがわかる人もいればわからない人もいる、と言う話だ。
あるがままに物事を受け入れることの出来ない人間は哀れだ。
母親達の言葉に絡んで何かできたつもりでいるのだろう、単なる「道化」にしか見えないというのに。