「「千と千尋の神隠し」は「少女売春」の話ではありません。」

指輪物語」で有名なトールキンが自分の作品に読者が「暗喩」を求めるのを否定した、の話を読んだことがある。
ファンタジーの世界とは個人が作りあげたものではない、の意識を持っていたんじゃないかとその時、思った。
ファンタジーとは、別世界からのメッセージが個人を通して伝えられるものだ、
個人の「表現力」という心象風景だけを取り上げて「分析」されるのは迷惑だ、もっとその美しい世界を自由に楽しめ、と
トールキンは言いたかったんじゃないのか、宮崎作品へのネットでの激しいバッシングを読む度考える。
私も、つっこむためだけに見るような己の感性の貧しさを恥じよ、と先日読んだ日記の方に完全同意する。
昨日、「千と千尋の神隠し」を見直してみた。
この作品は町山さんが「少女売春の話だ!」などといつものように妄想電波炸裂なことを言ったので、以来、
その口まねさえすれば聡明に見えると信じている頭の悪い人間がその発想が定着しているかのように繰り返していて
そう見える部分があるだろうか、と私もまた「確かめる」つもりで見た。
家に子供達がまだ小さかった頃にプレゼントされたヴィデオがあって、もらったとき1度見て、
印象的な場面の断片を憶えているだけで細部をほとんど忘れてしまっていた。
ただ、私は見ていてすがすがしい、きれいな映画と言う記憶があったので、
かつて楽しんだ映画を「変態作家の少女売春映画」と毒づく評を読んだあとで、同じ感覚を保てるのかどうか不安だった。
しかし、そんなことは杞憂だった。私は改めて感動した。
これのどこを見て「少女売春」などと言い出しているのかさっぱりわからない。
単に「湯屋で働く女の子」と言うだけで「売春!」と結びつけるとは、どれだけ情けない発想しかもっていないのか、
ネットで毎日新聞バッシングを繰り返している愚かしい人たち以下だ、本当にくだらない。
これは子供の美しい愛情の話だ、全編を通して純真な子供の愛情に満ちあふれている。
私は自分の子供達よりも幼い「千尋」の目になってその世界を旅していった、
「あんな風に自分のお父さんやお母さんが豚になってしまったらどうしよう?」
子供時代の漠然とした不安の中に引き戻されていく、知らない男の子が自分を知っている、と言って手を引いてくれる、
新しい「友達」?それともなんだろう、相手が自分を大切に思ってくれるように自分も相手を大切に思う、
そんな自分の心の「不思議」、アニメの世界の中で忘れていた「感覚」を思い出すような喜びと共に、どこかに胸の痛みがある。
細部で「説明がつかない」とは「想像」の余地を残していると言うことだ、
語られない様々な詳細を子供は「ああなのかな?こうなのかな?」と多分、大人になるまで考え続ける。
アニメーション映画を見る楽しみは「異世界」に容易に入っていけることだ、実写にはない世界を体感できる、
それは誰かの見た夢を見せてもらうかのようだ、その素晴らしい夢の世界を私は楽しむ。
個人が表現した「夢」は下手な「精神分析」で切り刻まれるような世界ではない、
くだらない「夢判断」を得意になって「批評」と称する人間はどれだけ哀れな存在であることか。
ディズニーランドに来て、子供達に挨拶するミッキーマウスを罵倒する「痛い」人間を見るかのようだ、
虚構の世界で楽しむつもりがないのなら、はじめから来なければいい、「楽しむ能力がない」とはなんと悲しいことか。
近々「ポニョ」を見に行く予定でこれだけ否定的な批評を見た後で楽しめるだろうか?の不安があったがそれは払拭された。
いつも読ませてもらっている信頼できる感性の方の「パンダ子パンダを思い出した」「涙が出た」の言葉を共有しよう。
自分のレベルに引き下げてしかものを語れない人間の言葉よりも私は自分の感性の方を信じようと思う。
それにしても「批評」と称する己の無能力ぶりをネットに得意げに晒すとは、「書く」ということは「痛い」よな。
何かを「楽しめる能力」とはここまで顕著に表れるかと、改めて。