今朝も朝が早い、、(涙)

学生時代、ゼミの先生が「作品を分析するとき、その作者の分析になってはいけない」と口を酸っぱくして話されていて、
例えば、シェークスピア作品のレポートで、「この時期のシェークスピアは、、」などと一言でも入れると、
「おや、君にはシェークスピアの全てがわかっているようですな、じゃあ、僕にかわって講義してもらいましょうか」とか、
シェークスピアはこの作品を○○のように考えたと思われる」などと言うと
「素晴らしい!作家の心情がわかるなんて!!○○町に「神様」がご降臨された!!!」と
それはそれは素晴らしい「皮肉の嵐」だったものだが、
先生の考え方は「作品」分析はあくまで「作品」だけに絡めろ、「作者の心情」にまで及ぶ必要はない、だったのだろう、
私は今でも作品鑑賞、分析、にその作者のあり方を問うのに違和感をおぼえる。
千と千尋の神隠し」の批評、批判の多くが「宮崎駿バッシング」になっているのがどうも解せないのはその点にあるかな。
学生時代の恩師は「作者評で「水増し」されたレポートを読みたいわけではありません」と決められた「枠」内でどれだけ作品に近づけるか、
私はトールキン指輪物語の「暗喩」を拒否したと言われるのも、作品「世界」を楽しむ意味だったんだろうと思う。
作品を楽しむ、というよりは、その作り手を見下すために、要は自分の「プライド」を満足させるためだけに、
何かを「読む」、「みる」人間のなんと多いことか!
作者の「意図」だけを見極めるためだけに何かを「読む」「みる」くらいなら、計算問題でも解いていればいいのにね、
その方が、確実な「解」に出会えるよ、その自分の「感性」の貧しさを恥じることがないのはまったくもって不思議だ。
千と千尋で宮崎は終わった、、」なんて書いてる人を見かけると、ほんまに「アホ」な奴やなあ、と
重箱の隅をほじくり出すだけで人生が終わるのね、まあ、それも人生だけど。
楽しむ、と言うことが出来ないのかな、まあ、そういう人には重箱の隅をほじくるのが「楽しい」ンだろうけど。
そういう「無駄」な人生を送りたくはないな。
さて、今日も楽しんできますか。