昨日の続き。

昨日書いたもの(http://d.hatena.ne.jp/chazuke/20080818)にまさに映画を見る能力のない見本から
リンクされている。(http://d.hatena.ne.jp/cuge/20080818/1219032046
彼の主張するところはは町山さんのこちら
(ttp://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040314 このようなくだらない件で直リンクするのは町山さんに申し訳ないので「h」は省略)
であることを私も知っている。
取り上げているインタビューでは宮崎監督は「湯屋で働く女の子」という「設定」の話をしているわけで、
それが映画の「物語」の中で、「少女売春」に直結すると私は思わない。
実際、映画のメインテーマがなんであるのか真面目に見ていればわかるだろう。インタビューの内容はあくまでも「設定」の話だ。
確か、あの映画の中で何故か店の「湯」の旗は「油」とされていたように思うのだが、
私はそこに「「湯女」ではなく「油女」である」と、人の悪い宮崎監督はすぐに「主人公に売春をさせているー!」と言いたがる
馬鹿をけむにまく「工夫」をしたのではないか、と考えている。また、「油、売っています」の言葉遊びにもなるのかもしれない。
もうすでに別に解説されていることかもしれないが私はそのように見ている。
町山さんのエントリに戻せば、元々映画を見る能力のない頭の弱い人間が「少女売春を宮崎監督は認めている!」などと
自分の願望で錯乱するのに用いられているように思われる。
「木を見て森を見ない」人間にとっては、「風俗産業」の一言で、「宮崎監督は変態だ!」になってしまうのだろう。
「神」」と「人」が出会う場所として今では「風俗」と呼ばれる場所を選んだのは当然のことだと私も思う。
日本の売春史を多少でも聞きかじっていれば、何故、遊女の施設が寺や神社のそばにあったのか知っているだろう。
「性」が「豊穣」に結びつけられる原始社会から、呪術、芸事、神事、そうしたもの全てが混沌としてかつて存在したのは事実、
宮崎監督はそうしたものから発想を得て映画を作り上げたのだ、と私は見なしているし、
だからといってあの映画が「少女売春だー!宮崎駿はひどい」などと、無理矢理、設定をひねくり回す考え方は
アニメ映画すらまともに理解できない人間であることをある種の人は晒しすぎではないのか。
「性」と「俗」、あるいは「聖」、そうした人間の深淵に関わる話を私がどう考えているか書くと長くなるので、別の機会に譲る。
さて、今回を利用して奇妙な「粘着」者、id.cugeの件を片付けておこう。
他のエントリを見てもわかるように非常に不安定な精神状態の人間で、私に「粘着」すればそれが直ると信じているかのようだ。
私はこの「粘着」が別id.で「自称、「有能」な26歳のIT関係者」として書いていることをすでに知っているし、
私のような日に50人程度しか訪問者のいない僻地日記にとりついて恥をさらし、心が癒されるのならいくらでもそうすればいい。
決して留め立てはしない、私がその「電波」内容を読めば喜ぶようなので必ず読むようにしてあげよう。
ただ、私は個人的な事情以外で、日記をつけるのをやめることはないし、プライベートモードの利用も今のところ考えていない。
それを悲痛なまでに望むのは無駄だ、他人が思い通りにならないことを知るのは弱った精神によいことではない。
私の日記に粘着するよりはしかるべき病院に通った方がいいのではないか。
申し訳ないがid.cuge名義の日記を私が取り上げるのはこれが最後だ。
自分同様、他人も無能力であると侮り、匿名や別idで書けば何かがごまかせる気でいる人間を心から気の毒に思う。
しかし、そう言う人間が、やはり「少女売春」の言葉に眩惑されるのだなあ、、、、