なんだかな、、、

ネットを見ると無駄に時間が費やされるな、と思いつつ。
なんというのかな、「子育て」をしていない人にとっては「育児」は単なる「理屈」でしかない、
と言うか、そこに伴う「痛み」ですらも、全て「言葉」で片がつくように思われている、
「感情を廃せ!」なんて言葉は「育児」をしている側にとっては、なにを言ってくれるかな?でしかないんだけど、
「子供を産んだ限りは育てるのが義務だろう」を基本理念として受け止める人には、
「なら、子供は産まない」が妥当な答えであり、「私はそうした」ですまされる問題なんだろう。
「育児」という生身の人間と人間とのぶつかり合いが、
周囲で見ている側にとっては滑稽な動物的行為であるが故にことさら、「理屈」として消費されているような、
「育児」は「感情」で行われる行為であるのだけれど、やったことのない人にとっては
「頭で考えれば簡単にできるじゃないの、かっこ笑い」的な、そういうすまされ方をするのが私には腹立たしい。
「育児」を「理屈でとらえろ」という、ほとんど暴力的な、
そして「育児問題」を「理屈」という「楯」にすること、この不快感、私は「理屈」の人間ではないので、うまく言い表せられない。
「整理された」論点と言う、このうんざり感、これが子どもを生み育てた人がしたのならば聞いておこうか、と思うんだが、
自ら、子供を持つ選択肢を放棄して、また、その放棄した理由を更に放棄し、別の分野に転換した人に書かれても
空回りする単なる「理屈」としか受け止められない。
現実的に知っている重さと「理屈」は相容れない、それもまた「違う」と「理屈」で整理されるんだろうが、
理屈を尊ぶ人間は永遠に理屈の罠から抜け出せないのだと思う今日この頃、
私は陳腐な「理屈」に感情で反応した人にその「罠」に陥って欲しくない、と心から願う。