今回、だらだら長いんで、スルーした方がよろしいかと。

大分前に私がいつも「南京事件」について勉強させてもらってるところのコメント欄で
本屋の品揃えについて盛り上がってたことがあった。その中で「嫌韓流」と小林よしのりの本と「正論」と
南京虐殺トンデモ本が一緒のコーナーにあると書いた人がいて、昨日私が行った一番御近所の本屋がそうなんで笑えた。
かなり前になるけれどそこは扶桑社の「新しい歴史教科書」のまわりにそうした一連の本を置いて、
さすがに「ムー」までは並べてなかったものの何故か「大○隆○」の本なぞもあったりして、
地元では大手であるものの最近進出してきた大資本の本屋チェーンに苦戦を強いられているんで仕方がないのかな、
けど店長の趣味が疑われるよなあ、と思っていたら、そのコーナーに作業着を着た本屋には似つかわしくない風体の
お兄ちゃんがやってきて、まるでそのコーナーを襲撃する勢いで並べてあった本全てを手にとってパラパラめくって、
結局小林よしのりの漫画と写真の多い薄っぺらい本を満足げに持ってレジへと向かう姿を見た。
コーナーはかき回されたように荒れてたものの、多分中には見るだけ見てほっぽりだす人もいるだろうから
買っただけましか、でもそうかァー、ああいうお兄ちゃん達が買ってるんだよなー、と妙に納得してしまった。
おそらくはこうしたことに興味を持たなければ本なんか買うことはなかった、本を読む習慣なんか
持ちそうにないお兄ちゃんがこういう本でもとりあえず「読んで」、「勉強」しようとしてるのか、と、
これが「勉強」の窓口になるんだな、それがいいことなのか悪いことなのかわからんのだけど、
以来私はあんまりネットウヨクちゃん達で遊べなくなってしまった。哀れなんだよ、
多分初めて「教えてもらった何か」「知りたくなった何か」なんだよな、
本をほとんど読んだことがないだろうからそのテの本の突っ込みどころがどこかわからない、
「字」であり「漢字」であるだけで自分に足りないものが補えたような、そんな気になるんじゃないか、と、
それならそれでいいんじゃないか、とか思ってしまう、
かなり汚れた作業着姿のお兄ちゃん達にとって多分仕事のライバルは低賃金で
「研修生」の名目でやってきてる中国人達、たまたまかんじの悪い中国人とそりがあわなくて
その鬱憤を本で晴らす、ネットで喚く、そういうところがあるんだろう、かの国でもそうであるように。
今もちょっとした話題になってる「丸山真男をひっぱたきたい」の雑文について「論座」で取り上げられた時、
鶴見俊輔さんが上野千鶴子さんは「こういう子達にこんな考え方以外の何かを私達世代は与えてやれなかった」
「こういうことを言い出したのは私達のせいだ」的なことを言ったとふれられて、
私はこのことに気付いた上野さんは立派だ、生の丸山真男を知っていた鶴見さんがほとんど反論もせずに
こうした答えを出したのはやはり立派だと思った。誰がどんなとりあげ方をしようと私は
「ひっぱたきたい」のぼくちゃんを正当化するつもりはないし、その考え方を哀れに思うことはない。
同世代には絶大な威力を発揮したようで「銃口を突き付けられているのは」どうやら彼らより
少し上の私達世代であるとの意見も見たが、彼らは気がついているのだろうか?彼らが銃口をむけているのは
私達上世代ではなく自分達の後の世代、つまり私の「子供」世代に銃口を向けているのに。
今、戦争が出来る国となって実際戦争に行くのは現在10代前後の子供達世代だ。
彼らは自分より下の世代の命を喰むことになるのを知ってるだろうか?もし本当に戦争となって、
それで少なからぬ命が奪われてそこで生き残った恨みを持つ世代がまた、
今、銃口を私達に向けているつもりの彼らに向かってためらいもなく銃口を向けることがわかっているだろうか?
それがわからないからそういうことが書ける、でも確かにその考え方の代わりになるものを与えていない、
上野千鶴子さんが感じたことは恐ろしく正しい。小林よしのりの漫画で「真理」的なものを
与えられた気持ちになるお兄ちゃん達に別の考え方を示してあげられていないのだ。このことに私も心がいたむ。
ところで上野千鶴子さんはなんとなく昨今ブが悪そうだが私はやはり傑物だと思う。
私が従軍慰安婦問題に関心を抱いているのは幾つか理由があるのだけれど
その中で上野さんの「ナショナリズムジェンダー」を読んだことも大きい。
あの本の中で私は初めて「レイプキャンプ」の存在を知って衝撃を受けた。それが起こったとされる90年代はじめ頃、
私は20代半ばで初めて母親になった。大変幸せで世界はとても楽しく美しく見えていた、
でも同時期に、同じ年頃の女性が、戦時下でそんなひどいめにあい、また本来喜びの源でもある子供の存在を
憎まざるを得ない状態に追いやられたなんて、同じ時代を生きていて、天国と地獄くらいの差が与えられたことや、
私の子供と今同じくらいの年になっただろう、生まれた子供、生まれなかった子供、のことを思うとやりきれなくなる。
戦争が起これば、その時「若い女」であれば見境なく「モノ」となる。
それを防ぐための「従軍慰安婦だ」と言う人もいるだろうが、私が、或いは私の子供が
従軍慰安婦」にされない保証はどこにあると言うのだろうか?そのテの考え方をする男達は
いったん女が「汚されれば」もう別に何をされてもかまわない、とでも言いたげだ。
上野千鶴子さんは「ナショナリズムジェンダー」の中で沖縄で少女を米兵が3人がかりで乱暴した事件も出されて、
その少女の痛みと従軍慰安婦の痛みを同じものだと見なければいけない、と書かれた。
私はこのことを書いた時、上野さんは泣いていただろうと思う。
決して少女の想像を絶する痛みを、不幸を、軽く見るのではない、
その哀しみの同一線上にかつての女性の痛みがあると、人間は本来平等であるはずだと、
上野さんは身を切り刻みながら訴えたと私は思っている。
モノを教えられる、とはこんなにもお互いせつないものなのだ、教える側も、教えられる側も。
だから私は従軍慰安婦問題をどこの国でもやってる、今でも各国である売春問題と同じだと、
妙に拡散するやり方を肯定しない。もちろん女性の痛みは同じだが、だからといってかつて起こったことを
うやむやにするのは間違っている。同じにしようとしてどこかで男が女を分別している。
この考え方は「戦争に行かせるもの」「行かされるもの」の、人間の分別にも関わってくる。
誰かに誰かを殺させること、それは誰かが自分を殺しに来ることを受け入れることだと、わかっているだろうか?
私達は戦争を超える術を未だ見つけられていない。今、私がわかっているのはそれだけだ。
私は煽動する側は憎むが煽動される側を憎むことはもう出来ない。
とりあえず必死に働くお兄ちゃん達が本を読んで少しでも幸せでいられるのなら良いのかも、
と思う私はものすごく間違っているんだけれど。