今日もまたスルーって事で。

自分が男でやりたいことがいっぱいあって、子供もそれほど欲しくなかったら、多分私は結婚してないと思う。
私がなんで結婚したかは一番大きな理由は子供が欲しかったことで、それからもちろん子供の父親になる人が
大変よい人だと信じられたからで、今、この時期に結婚することがベストだと思えたからではあるものの、
些末な、女一人でいるのは何かと面倒が多い、とか
それこそ「恋愛至上主議」から早く「いちぬーけた!」とやりたかったから、も理由としてある。
女が好きなことやって、一人でいる、のをどれだけ阻まれることか、今はそうじゃないかもしれんが、
少なくとも私が若い時分は妙な茶々がいっぱい入った。夜中に一人暮らししてる部屋の前に
それほど親しくない付き合いの男に立たれたり、酔っぱらってる男に部屋のドアをどんどん叩かれたり、
「一人なんだろう?」なんてワケのわからんこと言われたり、
ああ、もうなんかつくづく嫌、人が一人で楽しくいるのがそんなに悪いことか、
女だからって、どうしていつでも男を求めてるように思われなくちゃいけないのか、
本当に嫌で嫌でたまらなかった。
そういうことを言うと今度は女から「自慢してる!」みたいに言われることもあったし。
若い女であることは個人として認められないことのように私には思われた。
花のような綺麗な飾りであること、切り花のように枯れたらすぐ取り替えられる、そういう存在であると、
でもそれは一度は女性がくぐり抜けなければいけない道かと、それでも「見られる存在」だけではないと、
自分の体は自分のモノであると信じたいから私は子供を産んだようにも思う。
子供を産んで、年をとって、シミやしわ、白髪やたるみ、なんかが出来て私はやっと自分の体が
自分だけのモノだったと信じられる。ああ、このからだ、よく使った、これで私のモノになった、と思ってる。
この体で、子供も作った、日をいっぱい浴びた、色んなところに行った、失敗もした、無理もした、
そして今ギックリ腰になったりして、この「体を」持った「私」が使ってそうしたんだ、と思うと痛快だ。
(いや、ギックリ腰は本当に痛いんですけど)もう「見られる存在」は卒業だ!でものすごく嬉しい。
ごく恵まれた社会の中でさえ不快に思うあれこれがあるのに、それ以上の苦痛を、不幸を及ぼされた
若い「女性」達に、私は無限の同情を寄せる。過去も、現在も。
過去の従軍慰安婦の事をほじくり返すヒマがあったら今のヨーロッパでもまだある女性の性的搾取、略奪に目を向けろ、
って言う人いるけど、それって結局60年前と、全然やってきたことが変わってないって事じゃないのか?
男は一体なにしてくれたの?60年、いやそれ以上前からずっとずっと女は「モノ」として扱ってきたんじゃない、
その反省はかけらほどもないの?それからそういうことを言う人はそうした女性達に何をしてあげてるの?
何もしてないくせに、何故、そういうことを言う。
「日本だけじゃない」「アングロサクソン人的糾弾の手法」と言われても、「男」がやってきたことでしょう。
少なくとも従軍慰安「夫」なんて歴史上に存在したかどうか知らない、
「男」が「男」に「奉仕」する、はあったことらしいけど。
結局「うるさい、黙ってろ」と言いたい男の方が今でもやっぱり多いんだって、私は色々読んでて思う。
とあるコメント欄を読んでて発言した人に私はものすごくがっかりさせられた。
「内向きの議論」「海外に出てないから」「過去の罪を認めることは『自分』が謝ることだ」ってなんなんだろう、
「国家」がやったことで「個人」に謝罪を求めるようなトンデモ電波人、私は知りませんけどね。なんか変だ。
でも「河野談話」が「Kono statement」と訳されているらしいから「河野」さんが「個人的」に「謝ってる」
と思われるのかな、私は「statement」は「(個人的)主張、声明」に感じられる。
河野さんが謝ったからと言って「公人」である立場と「一私人」である日本人が謝らないといけない、
ってのは違うでしょうにね。
ところで「伊勢崎のジャンヌダルク」は御自分よりずっと年上の格上の同じ自民党議員である河野さんを
「バカ」なんて言ってるのね、こんな人に「家族の絆」とか「女らしさ」とか言われてもなあ、、、