ネット雑記。

在特会がこわい。子どもに罵声を聞かせる存在がこわい。
卑怯な人間は必ず子どもを狙う、そしてそのことを正当化する、最終的には「おまえのためにやってるんだ」とまで言う。
それを言うとき、彼らは「神」となる、絶対で全能の「神」、「おまえが悪いからやってやる」と、
ネットでも、どれだけ多くの「神」に逢ってきたことか。
「力」を渇望する「神」など、私にとっては「神」ではないが、ある種の人にとっては「神」であるらしい。
罵声を浴びせられれば、子どもたちは傷つく、そして親も傷つく、相手の思い通りだろう。
彼らは気に入らない相手の心を傷つけるだけで満足するだろうか?
いずれ、言葉ではものたらなくなって、直接的な暴力に訴えるんじゃないか、その「暴力」は「制裁」という名で振るわれるだろう、
「おまえが悪いからこうやって「教えてやる」」と、「暴力」は「暴力」ではなく、「聖なる裁き」となる。
もう彼らの目に「子ども」は「子ども」とうつっていない、「敵」でしかない、いや、自分たちの憎悪の「的」か。
私が彼らを忌むのは彼らからは満たされない自尊心の独特の腐臭を感じるからだ。
強烈な自尊心を持ち、世界は自分が支配するために存在すると信じ、
しかし世間が自分自身に値する(と信じている)ほどの評価をしてくれなかったとき、自分を否定するものは全て「悪」と変わる、
世間に承認されないのは、自分自身の力足らずであったと、かけらほどにも省みることはない、
自分自身を振り返ることすら出来ないその弱さを憐れまなければならないのだと知りつつも、私はやはり彼らの存在に吐き気がする。
おそらくは、同じ弱さを私自身も持っていたために。
自分がはられるのをおそれる「札」を他人に貼り付けて、その貼り付けた他人を叩きまくる、
それをする瞬間だけは「人生の失敗者」という恐るべき「札」から自分は逃れられると信じている、
その理不尽で意味のない「札」をはがして立ち向かう相手には狂気のようになって集団でとりつく、自分を「否定」されたくないために。
まさに、暴力を振るう相手から「やさしさ」をねだる、だ。
その醜さを哀れに思うまでに自分が成長するのにはどれほどの時間がかかるのか、まだ私にはわからない。
彼らを見ていると、日本はここまで貧しくなったかと哀しい。