雑記。

今回の件で私は「他人に暴力でやさしさを求める」を教えてもらった。
なるほど、自分が傷つけた相手からやさしさを引き出そうとするいじましい人間は数多くいるな。
様々な揚げ足取りがあって、痛みや叫びがこうやって曖昧にされていくのだなあ、
人を人とも思わないその鈍感さを「けだもの的」と私は思うんだけど。
ブルマー女史については私が20年ほど前に読んだ本ではブルマーの提唱者、とあったけれど、どうも違うらしい。
正しいかどうかはわからないけれど、ウィキペディアの「ブルマー」に詳しく書かれているので、興味のある人はどうぞ。
装うことが喜びではない人がいるらしいのが私には不思議だ、「女らしさ」は擬態であるのかもしれないが、
中年女になった今でも私はきれいな服が好きだし、例え「しまむら」「ユニクロ」であっても似合う服を探すのが楽しい、
装うことは生きる喜びの一部でもある。
それが他人からの承認を無意識に求めているためだと言われたら、そういう部分もあるのだろうが、
人は、言葉が存在しない昔でも、花を「美しい」と見れば、それを身につけることをしてきただろうと私は思う。
それは「他人よりも自分が美しくなりたい」よりも、自分が認めた美しさと一体になりたい、そういう感覚だったんじゃないか、
他人の視線は私が服を選ぶときにエッセンスとして意識はするが、それ以上になることはない気がする。
エッセンスは重要だとよくわかっているので忘れることはないが、それは自分が完全に「満足」したいために用いるものだ、
「着たい!」となると最終的には私は着てしまう、チェックの厳しい娘の制止は振り切る!と断言する。(娘の言葉は厳しいわぁ、、)
私は赤いミニスカートが好きだったな、よく似合いましたのよ、ほほほ、今ではそれがその時ほど似合わないのがわかるのではかないけどね。
上手に装う人を見るのが好きだな、女性でも、男性でも。
男性の場合、「その服を着るのは女ウケをねらっているからだろう!」なんて言われないのがうらやましい、
女性の場合、何を着ても何故か同性からも、異性からも文句が来る、
「そんな服を着ているとレイプされても当然」とか「男に我慢させるのを楽しむために着る」とか、いやはや、女はまったく生きにくい。
それでもやはり好きな服を選びたい、似合う服を探したい、私は私を満足させたい。
そういえば、先日読んだ中村うさぎさんのエッセイの中で男性の「薄毛」コンプレックスが取り上げられていたが、
男性は増毛するとやはり同性から「女の気をひきたがっている!」と糾弾されるのかしらね?
「薄毛」について、若かりし頃、知り合いの薄毛男性がしみじみと
「あるべきところにないとやはり哀しいものだ」と語っていて、「へー、そんなモン?」と当時の私は思ったものだが、
今、中年になって「なかったところにあるシミ」を見る度、あのときの彼の気持ちがわかる気もする。
と言って、そのシミを消す気はないな、以前、鏡を見て「とっちゃおうかしら」なんてつぶやいていると、
下の娘に「それもママだもの、とっちゃ駄目」と言われたので。娘にとっては私の顔の中の「あるべきところにない!」になってしまうのかも。
まあ、シミも含めて娘にとっての「私」なんだな、とうれしかったので多分とらない。
今回の件では、装う自由とか、様々な喜びが圧倒的な言葉の渦の中で消されてしまうようにも見えてうんざりした。
それでも、好きな服を着ましょうね、それが、誤解を招くかもしれないけど「女のプライド」ってやつ、
誰になんと言われようと、どう思われようと、自分が選んだ「きれい」でいましょうね、とこっそり。