雑談。

「ロスジェネ」という雑誌に紙屋高雪氏が寄稿されていて、「ネット右翼体験」と題した章の冒頭部に
高校生のサイトが数人の執拗な「常連」に閉鎖させられた話が出てくる。
掲示板でたしなめたことが何度もあるが、そのたびに
「いやだなあ、僕らは議論しているだけですよ?いじめだとか批判だとか思うのはそちらの主観ではないですか?」
というむねのことをいいかえされた。」
続けて
「こういういい方もいじめを発見されたときのいじめっ子ぽい」
「開かれた真摯な議論をするのでもなく、仮想的をつくってそれを集団でつぶすことで自分の鬱憤を晴らすー
その主張の内容と言うよりも「いじめ」そっくりの言動の様式に反吐が出そうだった」
ネットで「議論」と一方が主張するものはこういう形態であることが多い。
そしてこの「議論」は「集団」対「個人」なのがほとんどだ。
基本的に「俺様の素晴らしい「価値観」でおまえを断罪してやる、ありがたく思え」が「集団」の主張だろう。
優越感ゲーム」もよく聞く言葉だ、やる気のない奴を引きずり込めば簡単に「勝てる」。
私はネットにおいて「おまえの負け」と書く人間の感覚がよくわからなかったが、やっと、うっすらつかんだ気がする。
何がなんでも相手を自分より「下」にすることで、自分は「上」に「見える」と信じているのだ。
「見られる」を主体にした感覚だ。
「見ている」側も自分の思い通りに動くと思いこんでいる、つまり「見ている」側も見下しているのではないか。
だから自分の思いもよらぬ動きを見せた「見ている」人間がいれば「叩かずにはいられない」、
某所で「意趣返し」の言葉を見たときそういうことを感じた。
「いじめ」とは、いじめをしている側はそれを「いじめ」と認めることが決してない、
認めることがなければその「いじめ」は存在しないと言うかのようだ。
また「民主主義」の論理がこれを保証する。
「集団」対「個人」で、「数」の上では「いじめをしている側」の方が優勢だ。
「俺「たち」が「いじめ」と思っていないから「いじめられてる」と思う方が間違い」
「いじめ」と思う方が「負け」、
ネットで「議論」と一方が呼んでいるものもこれと同じスタイルだ。
紙屋氏は「いじめそっくりの様式」と書かれているが、「そっくりの様式」と言うよりは「いじめそのもの」、と私は認識している。
いじめをする側の心理が今まで私はわからなかったけれど、やっとだんだんわかってきたような。
「他人を自分の思い通りに動かしたい」、「従わないものを徹底的に「叩く」」、これにつきるのではないか。
そんなにも他人を思い通りに動かしたがり、また動くと「信じている」、この「意識」に私も反吐が出そうだ。
他人が嫌だと言うことをあくまで軽く見て、「嫌だ」という反応を見せた方が「バカ」、
「バカにされても黙ってろ、バカなんだから、かっこ笑い」
「バカ、と本当のことを指摘されたからおこっているバカ」
私は自分の価値観をあくまで押しつけようとする相手の理解の範疇をはるかに超える反応に出たい、
そしてその反応をその相手に理解してもらおうとは思わない。
思いもがけない動きを見せた人間の方が悪い、となれば、つまり「俺の言うことを聞かなかった奴は悪い」と言うことなのか、
この心理をどう表現するべきか、ちょっと思いつかないが、とにかく自分には「力」がある、と信じたいと言うことなんだろう。
「力」とはそれがあるように他人に「見せる」ためだけに存在するものではないと私は思うが。
それにしても紙屋氏の書いた消えたサイトとはどこのことだったか、わかる人にはわかるんだろう。
高校生とわかっていても「集団」で叩く人間がいるのだと、そこが私にはもっとも衝撃的だった。
それが現実生活の「いじめ」の書き込みと絡み合った時、どれほどの悲劇が起こりうるか、この先、心配になった。
(紙屋氏の「ルポ」の内容は「いじめ」とは全然違うことで、非常に有益でした。)