絶望した、、

やはり「自衛!」「自己責任!」の記事があるなあ、読んでいてうんざりした。
以前、沖縄の少女暴行事件でも書いたことがあるが
「親切心で自衛しろ、と言ってるんだ!」の人間って、自分の「善意」を前面に押し出すけど
善意の人間とは、実際に被害にあって身も心も傷ついた人を指さして、「ああならないように気をつけないといけないよ」と言うものなのかな。
理不尽に自分の尊厳を踏みにじられた上に「自己責任」なんて、周囲から「ああならないように」の「例」にされる、
「被害者」とは「社会の秩序」という幻想を守るための「生け贄」か?
「あのとき、あの道を通らなければ、、」と、どんな人でも犯罪に巻き込まれれば、自分を責めるものだと思う。
何故、自分を責めるのか、それは世間が責めるからだ、
「ああいう事件に巻き込まれるのは、ちゃんとしていなかったからだ」と、なんの関係もない他人は自分の「安心」のために言いたがる。
若い女の子が少々不注意なのは絶対に「許されない」けれど、強姦するような犯罪者は「許される」みたいだ。
戸締まりをうっかり忘れることだってあるだろうに、
でも「窓に鍵を閉めないような奴は不注意だから住居侵入されて強姦されても自己責任」か。
先日、裁判員制度が適用された連続強盗強姦事件の被害者女性たちも「自己責任」か。
開いている窓から侵入する人間の方が圧倒的に悪いだろうにな。
以前、小中学生の後をつけて、家を鍵で開けるのを確認して、その家に押し入って子どもたちを強姦した事件もあった、
それも、その子どもが「悪い」と、ひいては子どもに家の鍵を開けさせる親が「悪い」と、そういうことですかね。
誰もいない自分の家で知らない男に犯されてしまった子どもと、その親が、自分の家でおこった大きな悲劇にどれほど心を痛めるか、
痛みを抱えた子どもと、親の自責の念を考えると、私は「被害者にも隙があった」のような言葉を口にする奴は檻に入れておけ、と思う。
人間じゃないでしょう、そんなことが言えるのは。
いつ、どんなことで被害者になるか、わからない、「気をつける」というのは「おまじない」に過ぎない、それも「犯罪者側」が唱える「おまじない」だ。
他人のつらさが見えない人が数多くいるのだなあ、とあらためて。