なんか、ちがうな、と。

曾野綾子の「世代」に注目しろ、との話を読んで、
でも、この戦後の時期に、数には出ない多くの、いわゆる「ぱんぱん」風ではない良家の女性たちが強姦されたと聞いたことがあるし、
それを噂ですら聞いたことがなかったらしい曾野綾子は思春期時代も今と同じく、鈍感な女だったとしか私は思わない。
もし「どんな時代」を「どういう人として生きたか」で考えるのなら、「女の嫉妬」で見た方がわかりやすい気がする、
「私が若い頃にはそんなきれいな服を着てみたくても、戦争のせいで「もの」がなかった、そもそもそんな「自由」がなかった」
戦争に「青春を奪われた世代」としての哀感、「自由」のなかった女性としてのあがき、それならば多少は共感できないでもない。
楽しく、美しく、「男の視線」をひく装いに身をやつせなかった「若さ」は、もうかえってくるものではないのだから。
幸いにして、私は「ワンレン・ボディコン」世代で、その手の「流行り」のスタイルを楽しく満喫したので、
「私はしたくても出来なかった!」の嫉妬からは免れている。
もし出来なかったとしたら、情けない話だけど、若い女の子に「くやしー!」となったかもと書かせてもらおう。
曾野綾子には「あなたとは違うんです!」とでも言われそうだが。
私は女だが、すらりとしたきれいな足を惜しげなくさらした女の子に見とれてしまう、「あら、かわいい」「すてきね」とにっこり笑いかけたくなる。
「きれいなものを見せてくれてありがとう」と、たいていの男性もそういう目で女の子のミニスカート姿を見ているものではないか。
「きれいだねー」と通りすがりのミニスカ姿の女の子を眺めるのと、
「この女は襲われていいと思っている!」と考える妄想電波なトンデモ男とは根本的に「違う」と考えるべきじゃないか。
きれいな女の子を眺めたい、よく見たい、と思うオトコ心、そして「きれいでしょ、見て、見て」の若い女の子の健やかさは、
本来「あんな女は襲われて当然!」のレッテル貼りをすることとは、全く別物だろう。
私がちょっと気になったのは
>自分の性的魅力がどのくらいの価値があるかを充分自覚している女の子というのは、
魅力的なボディを目の前にして欲望が表に出てしまうのを懸命に堪えている男の子を眺めるのが好きだ。
それが可愛い女の子の残酷さというものであり、男子はそれに耐えねばならない。
と、書き手の方も、また曾野綾子的な感覚を男に持たれているのだなあ、
男が女を「見る」と言うことが「性的欲望」に直結していると、少なくとも私の周囲にいる男がそこまで女に飢えているわけではないので
「男はオオカミなのよ」的な発想はやや自意識過剰気味ではないかと思った。
そもそも「若くてかわいい」本当に「もてる」女の子は、ちょっとした挑発で欲望が刺激されるような男を相手にすることはない。
むしろ、その手の反応をよろこぶのは、「性」で男の気をひくしか「手」のない、
どちらかというと「もてる」とはほど遠いところにいる女の子であるような。
女子大卒の女である私は、多くの「もてる」女の子たちを観察してきて、
世間一般の「もてる女の子像」が、本当の「もてる女」が書いたものではないのに愕然としている。まあ、仕方がないか。
曾野綾子の説でもっとも許し難いと思ったのは
「大学生がアルバイト先から、暗くて自分でも気味が悪いと思うような夜道を歩いて帰る、ということが本来は常識外なのだ」のくだりだ。
(今、書き下して気がついたが、この文章の構造、おかしくないか?)
これは明らかに理不尽な殺され方をした島根の女子大生のことだろう。
私は、そもそも大学側にそんな夜道の危険な場所に寮を作るな!と言いたい。
若い女の子が住んでいる場所だと言うだけで、人間の「くず」は集まってくるだろう、
ましてや暗い山道を通らねばならないとは、と、設置した大学が「常識外」だと言わざるをえない。
あのような亡くなり方をした被害者が「常識外のことをした」と言わんばかりの信じがたい書き方に、
私は2度と曾野綾子の名前もみたくないと思った。
長くなったなあ、どうもこの手の話は、根本的に「女」を知っているか、「男」が見えているか、の話になるような。
若い女に「いい気になるな」というのは年古る女の「特権」かもしれないが、若い女が楽しく装うのも、また「若さ」の「特権」、
私は若い女の子にはどんどんきれいに装って欲しいし、くだらない「襲われても仕方がないかもよ」のイヤミな言説など、はねとばして欲しい。
若くてきれいな女の子は「国の宝」よ、と、基本的に「保守右翼」の私は鼓舞しておくかな。