哀しいこと。

沖縄で、中学2年生男子がいじめ集団暴行死。昨日の新聞では同じく沖縄で、中学女子も集団暴行を受ける。
「いじめ」に関しては、それをされた側の子どもの親も、どれほどの理不尽な痛みを抱えさせられることか、私にはよくわかる。
まして、子どもの命まで奪われるとは、家族のやりきれなさ、悲しみに涙する。
非常に残念な事実だが、「いじめをする」側にとって、「いじめ」は「いじめ」ではない。「正義」だ。
「生意気だから気に入らない」などと、あくまで「相手が悪い」、対象が「いじめ」を訴えても「いじめ、とうけとる方が悪い」、
と、こんなのを相手にしてもどうしようもないが、どういうわけか、相手側は決して「いじめ」の対象となった人間から離れることがない。
この「執着」が私には不思議でならないが、どうしようもないんだろう。
「相手が悪いから、相手に制裁を加えて「正義」を行っている!」とはこの上なく高揚感の伴うものだから。
猿にマスターベーションを教えたら死ぬまでそれをやると、何かで読んだことがある。
それが本当か嘘かはわからないが、私は、ネットで現実には全く知らない人間に粘着して罵倒を繰り返す人間をみると、このことを思い出す。
誰かを「あなたが悪いから、正義の私がこういうことを書いてあげるの!」とするのは楽しいんだろう。
他人を「理解」することよりも、「こうに違いない!」と「決めつけ」て、「あなたが悪い!」と、
それをすることで、相手よりも自分は「上」だと、本当に「楽」な存在確認、これをする人は一生それをし続けるように思う。
「相手よりも自分が上!」と、私が「だから?」としか思わないが。
見下している相手よりも自分が上であると繰り返し「確認」することにどんな意味があるのか、私にはさっぱりわからない。
でも、「弱きもの」と相手を見定め、それをもてあそぶのは楽しくてならないのだろう、相手が真っ当な反撃をしてくるまでは。
沖縄の亡くなった中学生は金銭を要求されていたようで、それを拒否したんだろう、その「生意気」さへの「制裁」、「集団暴行」、
「○○のくせに刃向かいやがって!」と、自分たちがやっていることは「正義」、「正義の自分たちには向かう人間は、悪」、「暴行されるのは当然」、
「生意気」と決めつけることが、どれほど傲慢であるかにすら気がつかない、
そういうものたちを、「人間」と認めるべきか、むしろ「猿」でしかないのではないか。
暴行したものたちよりも、大勢を相手にその要求を拒否する、勇気があって気高かった子どもの命が失われたことが、ただ、哀しい。