ほんのメモ・「差別と日本人」

前評判で聞いていたほど、野中氏と辛氏の対話が「かみ合っていない」気はしなかったなあ。
むしろ、あえてお互いに「かみ合わせていない」感じかな。
読んでいくうち、野中氏の老獪さに感服する、自分が話したいことは全て言い尽くして、話さずにおくと決めたことは「忘れた」にする、
それを受け入れることでしか「対話」出来ないと踏んでいる、と言うか、それを許している辛氏の野中氏への愛情をみた気がする。
「愛情」とは言い過ぎか、「連帯感」というか、同じく理不尽な痛みを受け入れさせられた側の「同志愛」、
どんな話題でも、自分の求めている答えが相手から引き出せなくても、「関わる」、対話相手の存在をそのまま受け入れる、
それが出来るのは痛みを乗り越えて、何らかの足跡を社会に残せた二人だからなんだろう。
対話形式の新書としては、出来はかなりいいのではないか、あまり新書に多くを求めすぎてはいけないと思うんだよな。
私は内容よりも、むしろこの本が長く売れ続けていることが時代を反映していると、
「差別」とは、それを受けた経験があって初めて気がつくものだと考えていて、
つまり、今の「日本人」は「差別されている」と感じている人が多いのかもしれない。
ただ、野中氏がうけたようなすさまじい「差別」が今の日本に多くあるかと言えば、時代が違いすぎる気がする。
「理不尽な差別」がどれほどのものか、はっきりと知っている日本人は、今、それほど多くいないように思う。
私の場合は海外で、初めて命まで脅かされる「差別」の存在を知った。
「アジアン」「カラード」であることを、まるで許されない「罪」であるかのように振る舞うものに対して、
その理不尽に「耐える」役割を私はおとなしく受け入れなかったので、相手は私に「暴力」を振るうことさえ試みた。
忘れることの出来ない経験だ、力を信奉する人間の醜さを思い知らされた。
しかし、そんな「有色人種差別」など、日本に帰ればさほどのこともない、
野中氏や辛氏のその痛みと闘うことに生涯を費やしたことに比べれば、単なる異国での小さな「アクシデント」に過ぎない、
結局、「日本人である」と言う「当然の権利」と思いこまされているものに私は守られているのだから。
それが実は脆弱な思いこみに過ぎなくても。
「差別」とはなんなのか、他人を見下すことでしか、自分を確認することが出来ない、
何故、そこまでして「自分」を「確認」しなければならないか、それがわからない限り、「差別」はなくならないのだろう、「いじめ」と同じく。
「差別」の実態をあらゆる方向から示す、野中氏や辛氏の言葉は重い。
「差別」の言葉にこだわるのはこのくらいにして、本で紹介されたエピソードでもっとも印象に残った話を。
第4章 「これからの政治と差別」で「小泉純一郎の政治姿勢」と題されて、北朝鮮外交にふれている。
北朝鮮側の外交畑にいる人間の立場を、どれほど日本側は考慮できたか、
「外交」の言葉の元で動く「人間」を、政治家である小泉純一郎とその他の面々が全く見ていない事実が指摘されていた。
日本で日本人が「外交」に失敗したとしても、命まで奪われる危険はなかろうが、北朝鮮ならば「あり得る」と、
少なくとも向こうで出された食事に一切手をつけない程度に相手を信用していないならば、
日本側に譲歩することを決断させた、様々な北朝鮮側の人間に「配慮」してもおかしくなかろう。
それをしなかったらしい小泉政権の薄っぺらさに、今の日本の混乱の元を見た気がした。
下で働く人間たちの立場をどれほど慮かれるかで、上に立つ人間の価値がはかれるのではないか。
「外交」とは「人」が関わるものなのだ、「政治」もまた同じだろう。
「人」をどれほど政治家が理解できるか、政治の善し悪し、とはそこにかかってるのではないか。
本当に小泉氏は薄っぺらだ、あんたはプレスリーの看板の横で永遠に踊ってろ!と心の底から思ってしまった。
考えさせられることは、まだ様々あるのだけれど、とりあえず、この辺で。
参考文献だけでも、戦後処理の云々を何も知らない私には価値がある。手元に置くべき新書だ、買ってよかった。