ネットの話題。

「しつけ」の話題に、あちらこちらでふれられているのを見た。
児童相談所と戦っている人が本当に奪い返したいものは、自分の「子ども」ではなく自分の「名誉」じゃないかな、
この方にとっての「宝もの」は「名誉」で、それをかけがえのない「子ども」と混同している気がする。
新風連」のような団体が共感するのは、彼らが常に「名誉」を強く意識しているからかもしれない、この団体をよく知らないけど。
「名誉」というものが根拠のない中傷同様、なんの意味もないことが理解できればいいのにね、
他人が作ったに過ぎない「規範」に自分を縛り付けている人なのかな、その規範から外れたら生きていけないと思い詰めてる。
人にどう「みられる」より、自分がどう「あるか」が一番大切なことだと気がつけば問題は解決するんじゃないか。
離婚でよほど辛い思いをしたんだろうか?「結婚の失敗者」のレッテルを貼られて、その痛手から抜け出せていない、
「人生の汚点」的にしか、その経験が見なせていないのかもしれない。
初めての経験でつまづいてしまうのは仕方がないことで、うまくいったとしても単なる「ビギナーズラック」でしかない、結婚も子育てもそう。
うまくいかなかったことをきちんと受け止めて、次につなげていければ、決して「つまずき」は人生の汚点ではないんだけど。
何故、こんなにも「失敗」をおそれる人たちが存在するようになったんだろう、あまりにも「完全」を求めすぎる世の中の傾向からかな?
「絶対に失敗は許されない!」な場面は確かにあるけど、それでも、思いがけない事故はおこってしまう、
問題はそのあとの行動で、いかにその事故の被害を最小限に抑えるか、これがいちばん大事なんだよね。
それが出来るかどうかで、自分が大人であるかどうかが問われる、ま、受け止め方に多少の失敗があっても、世の中、何とかなるもんだけど。
「失敗」をこわがらなくてもいいんだよ、それは当たり前のことなんだよ、と誰か教えてあげられる人はいないかな、
本当は宗教がその役割を果たすべきなんだろうけど、
どうも最近人気の宗教は自分たちに都合の悪いものは「悪」と見なすようで、八方ふさがりだわ。
宗教は人を縛るものではなく解放するものだと、そういう教育も必要だと最近思うようになってきたな、どの宗教が「いい」というのではなく。
児相が緊急避難的に子どもを親から離したことは仕方がないことだと思ったけど、
出来ればこの人たちと和解して欲しいなあ、子どもの将来のために。
いつか、保護された子どもも親になる年齢になる、その時、「敵」としか親を見なせなかったとしたら、苦しむんじゃないか。
今後、保護された子どもが、自分の親はかつて病んでいた、そう受け止められたら、親を許すことが出来たら、
そしてもっといいことは、病んでいたけれど、そこから努力して回復した、大切な子どものために帰ってきてくれた、
親がそうなれたら、これほど素晴らしいことはない、それこそが親にとっての本当の「名誉」なんだと思うのだけれど。
心を痛めた人がその痛みのために暴れて、より傷を深くしている、そういう人に私には思えた。
そんな親をみていた子どもは哀しかっただろうな。悲しんでいる子どもの存在を知るのは本当に切ない。