ネット雑録。

自分が努力して来た結果、当然のこととして得た「自分への信頼」と、安っぽい「エリート意識」を混同している人がいるようだな。
「似て非なるモノ」というのは多いからね。
「揺るぎのない自信」とくだらない「エリート意識」の見分けのつかない人間とは、自分に自信がないんじゃないかな、弱い犬ほど見境なくかみつくし。
ネットで拾い読んでいると、本当の「エリート」を見たことがない人ほど、曲解が好きなようだ。
あのね、本物のエリートは「エリート意識がー!」なんて叫びたがる人間のそばには決していないの、
クラスの半分が旧帝大に進むような学校にいれば、「とうだい」なんて「入って当たり前」、
そこに一般人によくわかる、他人を見下すための安っぽい「エリート意識」が入り込む隙があると私は思えないんだよな。
そもそも、本当の意味の「エリート」ってのは毎年、1000人以上量産されるものではないよね、
一般社会で「エリート」と呼ばれる人は、本当の意味では「エリート」じゃない、
旧帝大」出た「だけ」で、「エリートじゃん!」なんて呼ばれる世界にいる元「旧帝大生」とは、「旧帝大生」の「おちこぼれ」、
「本当のエリート」とは、「エリート」であることが「当たり前」の世界にしか存在しない、
つまり、みんなが「当たり前」に同じ学歴、「みーんなが旧帝大生」の職場や家庭にいるってこと、ま、一般人からすると「別世界」だね、
「エリート意識を俺は見抜いた!」と言いたがる人間には計り知れない世界じゃないのかな。
自分の理解の範疇にない相手を自分の尺度だけで測る、「自分、一番」基準ってのは、どこか浅はかだなあ、
ネットで「俺、京大卒」なんてことを始終書かないと、自分がアピールできない人がいるから、学歴のことを素直に出す人が勘ぐられてしまう、
自分の誤読も読み取れない人間が何を見てるのやら、
他人のことを「すべてわかってる」にしたがる人間ほど、自分のことはまったくわかっていない、
大いばりで他人のことを「分析」しているつもりでも、実は「自分語り」をしている、その「痛さ」になんだか、涙が出てきちゃう、、、、
あーあ、はずかしーよなー、ってなエントリをいくつか読んで、
「うそ臭い」と書けば、自分の書いていることは「うそ臭くない」と思い込んでいる、その「テクニック」の「なさ」にも、また「涙」。
ま、「深層心理」とか「無意識のうちに」と書けば、何でもありだけど。
この手の人が、自分の書いていることを全て「事実」と信じ込まない程度に、自分自身の「深層心理」のコントロールが出来ればいいね。
それにしても、「エリート意識を指摘してやった!」ほど、醜いものはないなあ、
「プライドの塊」なのは、そんな見方しか出来ない自分自身でしょうにね。
一番、見つめなければいけない自分の醜さから目を背け、全くの赤の他人が自分であるかのように思いこんで断罪して、
その果てになにがあるんだろうなあ、楽園?空しい楽園だな。
もっとも、こんなことを考えるのも、私の浅はかな尺度でしかないんで、本当のところはなにもわからないんだけど。
なんにでも「エリート意識が!」と言いたてるのは簡単だな、と思った。
人を柔らかく受け止めて理解しようとつとめるのは難しい、引き裂く方がずっと簡単、出来れば常に難しい方を選びたいものだ。