追記。

A案可決のニュースを見たとき、高校生の上の子が「一人生きるのに一人死ぬなんてかわいそう」と涙ぐんで、
でも一人死んで、生きられるのが一人だとは限らない可能性を私は黙っておいた、子どもに言われるまで気がつかなかったから。
これもまた「多数決」の原理なのかな、重い障害を負った人間はこの社会で生きていくのに「許し」が必要か、色々思ったが、
「親が提供を決める」に違和感を覚えたらしい子どもたちに「ママはあなたたちの臓器は提供しません、あなたたちのためにはもらうけど」と言って、
下の子には「なんて身勝手な」と笑われて、でも、私のこの答えに子どもたちは「安心」するのが現実、
「人の親」であるというのは「身勝手」を子どもに望まれることでもある。
子どもにとって「臓器提供」は違和感を覚えるらしく、私の子どもたちに関する限り、自分の体が「部品」のように扱われること、
そしてそれを親が容認しても「いい」ことを国が認めたのに少々反発を覚えるようだ、
幸いにして健康な娘たちは自分が提供を受けなければ生きられないかもしれない可能性に目を向けることは出来ない、
自分の死を考えることが出来ないように。「そんなこと、考えたくもない」が健康な人間の意見だ。それは責められない。
昨日ついたブクマコメントで、私は「思考停止状態」であると書かれたが、停止するのであればどれほど楽であるかと思う。
私は森岡さんのあの意見でA案に「反対」は出来なくなった、あの意見を「傲慢だ」と憤った人の方に私は共感を覚える。
あの意見は長くこの件に携われた森岡さんの悲痛な叫びであったことはよくわかる、
でも「いってはいけない」ことはやはりある。「道義」を問うならば。
現実に子どもを闘病させている親がどれほどの苦労を重ねていることか、
臓器移植を受けなければ生きられないほど、大きな「障害」を負わせて子どもをこの世に送り出してしまった、
自分のせいではないのにそのように考えてしまう、特に「母親」の心を思えば、
あの問いかけは自分の子どもに「死ね」といってるように聞こえるだろう。
死病を患った幼い子どもを家庭に抱える、その苦労は想像を絶すると私は思う、
その上で、あれはあまりに「残酷」だと私は「反発」を覚えた、私は「A案反対」とは安易に言えなくなってしまった。
もちろん、「A案、反対」が「安易」であるとは私は思わない、
しかし自分の子どもには臓器移植を「受けたい」と考える「親」の「私」がいるのも事実、
昨日も書いたが、私は自分の子どもが脳死状態だともし宣告されたとして、それでも私は「臓器提供」は「しない」。
それがどんなに許されざることであっても、社会から大きな非難を受けたとしても、私は自分の「身勝手」を押し通す。
「生きる」とは他人に「許されて」することではない、どれほどの罵倒を浴びようと、私は子どもがおわされた大きな障害と共に「生きたい」と思う。
A案が可決されて、「生きる」範囲を制限されるとしても私個人はそれを容認しない、
社会に生きる人間として「決まった」ことに反する、その「罰則」は甘んじて受けようと思うが、それでも私は「生きる」ことをあきらめるつもりはない。
それだけは確かなことだ。「生」を争うのは、これからだ、「思考停止」でいることはしたくても、出来ない。