雑記・あそーと。

昨日の続きで、やはりいろんな意見が出ているなあ、と、ただ「当事者」ではない人間には基本的に「なにも言えない」もんじゃないか。
健常児の親はこどもの学校選びに「迷う」権利がある、でも、肢体不自由な子どもの親には「選ぶ」権利はないのかな?
どちらか「正しい」方を「選べ」と、この親子「だけ」に圧力がかけられているようだ。
どちらが本当に「正しい」か、なんて誰にもわからない、選んだ方を「正しい」ように導いていくしかないじゃないか、
その「努力」を全く放棄しているように見える中学校側のかたくなさにうんざりする、なんで「行きたい」学校に行けないんだろうな。
でもこれこそが今の「学校」、それでも「通う」意思を見せるのはえらいな。
それから、某所で読んだ「泣く」ことについて、何故、泣きたいときに泣いてはいけないんだろう、とあらためて不思議に思った。
でも、私は若いころは人前で泣くことがなかったな。若いころ、非常におとなしそうに見えた人間なので、そういう人間が「泣く」と、面倒なことになる。
「女」が「泣く」と言うことで引き起こされるあれこれは、結局「泣く思い」をした女を再び締め上げることになる、
若い女には「泣く」権利も「ない」こともあるなあ、、、
おとなしそうに「見える」ことと、私が「ある」こととは全く別物であるはずなのに、
私が「私」であろうとすると、「おとなしそうな顔をして」とか、最悪、「おとなしい人間が『無理』をして」と勝手にあわれまれる、
「本当の君はそんな人ではないだろう、、、」って、「妄想」を押しつけてんじゃねーよ!!!!と叫び出したくなった、
人間は自分が「見た」「見えた」と「信じた」ものしか見ようとしない、私が「本当の自分、、」なんて怪しげな言葉が嫌いなのはそういう経験からかな。
今、年をとってよかったと思うのは「顔」が変わってきたこと、
若いころはひたすら「おとなしげ」に見えた顔が今は「誰がおとなしげ?」というくらい変わった、気の強そうな「おばはん」顔になったわよ、もう無敵。
自分の「内面」が中年以降ははっきりと現れるもんだな、
若いころ、他人の意表を突くほど気が強かったが、今はそれが外にも現れるようになったんで、昔ほどでもない。(と、思う)
「外側」が変われば人前で「泣く」ことも出来る、と言って、最近「他人」の前で泣いたのは、子どもの卒業式ぐらいか。
お子さんのお稽古ごと関係について拾い読んで、
格闘技系は公立体育館が主催する「スポーツ少年団」に参加するのと、「道場」に入門するのとでは
保護者のあれこれがかなり違うと思うので、ご注意を。
場所にもよるけれど、「道場」系は保護者のサポートを「当然」のこととして要求されることが多い。子どものお稽古ごとは大変よ、、、(遠い目)
我が家で何故二人の娘たちに「剣道」をさせたのか、その理由はまた後日。中学からでよかった、、、と思うこと多々。(なんのこっちゃ)