日常。

昨夜、急に思い立って、家の書庫を整理し始める。本来ならばダーリンがやるはずなんだが「そのうち、そのうち」と幾星霜。
確か8畳あったはずなのに今や体感「四畳半」、ってさっき聞いたら「10畳だ」って、どーゆーこっちゃねん!!!
と言うわけでいかに凄惨なる有様になっているか、しくしくしく、、、
ほとんどがダーリンの本なので、私がすることじゃないけど子どもたちがマンガの本を取りに行くたびにどこかが崩れてはらはらする。
ダーリンが本の山に埋もれてどうにかなるのは「自己責任」だが、子どもたちに何かあったら泣くに泣けん。
夕食後、こつこつと何時間もやっているのを子どもたちがみて「ママがかわいそうだよ、パパがしないといけないのに」とダーリン猛バッシング。
いや、ここまで来ると「好き」でやっているんだよ、私は「整理」をし始めると止まらない列車になる。
実は、思い悩むことがあると私は「整理」をし始めるくせがある、
これはまるで窮地を脱した猫が安全地帯で猛然と毛繕いをし始めるのに似てるな、と
「整理」はそのこと「だけ」に頭を使ってやがて頭が空っぽになっていくから好きだなあ、終わったときに達成感があるし、リセットもされてる。
悩みは相変わらずそこにあるのだけれど、また見方が変わってくる、こういう「時間」の使い方はある意味「主婦」的だよなあ。
以前、時間を細切れに割いてつなげる、と言うことを何げなく書いたことに「パッチワークのようだ」と反応をいただいて、
ほとんど意識しなかったけど、そう言われてみればそうだなあ、と、「専業」のくせに私、「手芸」苦手なのよね、パッチワークも実は、、(涙)
でも、「専業」に限らず「主婦業」って、どうしても「細切れに割いた時間をつないでいく」になると思う、特に子どもが増えると。
と言うより「面倒」をみなければいけない人が増えると、どうやって「時間」を「編み出す」か、って、やはり言い回しが「手芸」的になるな。
他人のために時間を使う、とは仕事でもそうなんだけど、その時間は「時給」で換算される、だからほぼ「無給」の「家事」とは趣が違う、
「無休」であるが故に「趣味性」が高いと見なされて、「すきでやってるんでしょ」と、
故に「自分」の時間が徹底的に削られて、ほとんど見えなくなってしまう、自分の時間がない、とは自分が亡くなる、と言うことでもある。
それでも「自分」を失いたくなければ、どのように「時間」を集めるか、「細切れに割かれた時間」をどうつなぎ合わせられるか、
これが自分のありように関わってくると、最近感じている。
割かれた時間は本当に細かく、まさに「氷の粒」のようなもので、淡く露のように消えてしまうものだけれど、それを集めれば「何か」になる、
「露」を集めて、恵の雨を呼ぶ雲が出来るかもしれないし、大河が出来るかもしれない、
でも、ちまちまとしたこまやかさ故に、集めても、集めても、すぐに大きなものにはならないから、バカにされて
その労力を簡単に引き裂かれてしまうかもしれない、それでもやはり「集める」んだな、黙々と。「誰」のためでもなく、「自分」のために。
「戦う」ってそういうことじゃないかな、と時々考える。
導入部分からなにを言ってるんだ、ってなかんじなんだが、細切れ時間では今考えていることをまとめるのはこれで精一杯、
何かあったとき、私が「整理」することに「逃げ込む」のは「かたまり時間」が欲しいからかな、
とりあえず「整理」しておけばその「時間」は「自分のもの」になる。「整頓できたー!」で大きな達成感もあるし。
私が不快な経験をしても、それでもネットをやめようと思わないのは、
何げなく私が発した言葉をきちんと受け止めてくれる人がいるからなんだろうな、その淡いつながりが、私にはうれしい。