昨日は。

根性がないので、ほとんどテレビは見なかった。
ただ一度だけ、NHKの7時のニュースで死亡診断書を山のように書いた医師が、言葉につまりながら亡くなった娘さんを連れてきたお父さんが
今度は妻を探しに行くと言った話をしていて、花粉症のせいか、鼻水と涙の止まらないダーリンがテレビを消した。
私は「弔い」や「宗教」はやはり必要だな、と思った。
親が子供を失うということは、夢や希望を一気に失うのと同じことだ。
これは「子どもに依存する」などというしたり顔の、レベル低い話ではなく「未来」を失う、
それは親であるという以上に人間として世界に深く絶望するということであり、生きていくことへの信頼の喪失と言った
人間の存在の根源に関わる重要な部分を失うということである。
カトリック信者ではないものの、何があってもみずから死ぬことだけを選んではいけないとわたしは思っていて、
ただ、あまりにも過酷な現実に襲われたとき、人が簡単に死んでしまいたい、と考えるのはしかたがないこともよく理解できる。
そういうどうしようもないときに「妻や子どもを誰が弔ってやれるだろうか?」と亡くした人を「弔う」ことに「生」の価値を見出す、
「弔い」を大切に思う心が生に人をつなぎ止められるのだとしたら、宗教は人間にとって必要なものだろう。
「死んだ人にとって弔いなんかなんになる?」というのは生きている人がよく言うことでもあるが生きている人のために弔いはするのだ。
人を一人、見送ることはとても大変でたった一人では出来ない、そして一人ぼっちになった人に他の人間の存在を気づかせるためにも他人がより集まる「葬式」は必要、
3か月法要とか、1周忌、3周忌、月命日、とか、そういう時間の区切りで祈ることで残された人の気持ちを整理させる、そんな効能もある気がする。
日頃はさほど役に立たない「宗教」はやはりそれなりに必要と、しかしこんなふうに考えるわたしに宗教のプラシボ効果はあるのか、
いや、そういうプラシボ効果を必要としないように日々祈ることにしよう、などと考えるのでした。
宗教を押しつけることは容認しないが、人が生きていくためにオマジナイのような宗教は必要だとしみじみ思う。
亡くなった人を弔うために生きていく、弔う人がいる限り、亡くなった人は消えては行かない。