とりとめなく、雑記。

とあるブクマから、紙屋高雪氏がこうの史代の書評を書いているのを読んで、ご自分のお子さんのことを書かれているのが印象に残った。
そうだなあ、親にとって、いちばん怖いのが生まれてきた子供を失うこと、
特に産まれたばかりのころは、そのあまりに無垢な存在が、ふいに与えられたと同時に取り上げられてしまうかも、と私もよくおそれた。
その成長に苦痛を覚えるほどに失うことをおそれてしまう、育児の喜びはその原始的な恐怖で幾分削がれる気がする、
成長への喜びに自分が依存しすぎないように、と。
子どもが大きくなったらそうではなくなるか、と言えば、そんなことはない。
私は今でも子どもがある日突然帰ってこなくなるんじゃないか、と不安を覚えることがある。
繰り返すはずの日常が突然引きちぎられるニュースを目にすることが多いから。本当に、今でもやはりこわい。
東北大院生の自殺で私がもっとも哀しいのはご両親のことだ。ご両親にとっては、学位だのなんだのなんてどうでもいいことだったろう、
それが彼には見えなかったのか、追い詰められた精神状態とはそこまでに至るのだ、
嘆き悲しむ親ごさんは多分そんな風に自分を追い詰める「性格」に育ててしまったとまで自分を責めるんじゃないか。
子どもを育てる不安と苦痛はその子どもの性格が全て親の作り出したものだと思いこまされていることにある気が時々する。
だから「幼児教育」に走る人もいるし、またそうした人に反発する人もいる、みんな同じ「恐怖」に駆られていると思う。
これをどのようにして取り除くか、最近、考える。でも「不安」は「必要」だから、あるのかもしれないとも思う。
不安とのつきあい方を模索してみよう。