雑記。

数日前から朝日新聞のコラム「あなたの安心」で「介護」問題を扱っていて、先日の「親の介護は突然に」の言葉に違和感が。
親の「老い」は突然やってくるのではないと思うんだよなあ、自分も年をとると同時に親も緩やかに衰えていく。
これを書いた人がフルタイムの仕事をして親元から離れて暮らしていたから特にそう感じたんだろうが、あまりに一面的な考え方に見えた。
それまで見ようとしなかったものが急激に現れたことを「突然」の言葉でごまかしているような、
しかし、自分の生活で手一杯であれば仕方がないことなんだろう。親の変化に子どもが気がつけないほどに、「生活」が忙しい。
私の場合、子育てが一段落した時期に地元に帰ってきて、実家に近いところに住んでいるので、両親がゆっくりと年をとっているのがよくわかる。
2年ほど前から体調を崩すことがあるので、「専業主婦」である私が付き添って、しみじみ介護の前に育児をしていてよかったなあ、と
「気長にやる」を「子育て」で教わってきたことを感謝したりして。色々あるんだが、それほど腹を立てずにすむ自分自身も年をとったよなあ、と。
地方の専業主婦の「パート」はここ10年ぐらい「介護」関係が多くて、私のPTA関係の知り合いも、よくその仕事についている。
地方では3世代どころか、4世代同居も珍しくなく、自分の子どもが「大きいばあちゃん」と呼ぶ人を「(ただの)ばあちゃん」と呼ぶ人が介護していて
「母ちゃん」が、時々「大きいばあちゃん」が風呂に入りに行く「介護センター」でパートをしている、友達曰く「黄金パターン」。
介護センターで働く知り合いに聞くと、「自分が親の介護をするときに役に立ちそうで、一石二鳥のパート」
「床ずれの防ぎかたとか治し方とか、勉強になるわァ」って、なるほどなあ。
結婚前に育ててくれた祖母の介護を1年ほどしていて、その頃に比べると、介護環境もよくなった部分もあり、不便になった部分もあり、
さて、自分が本格的に親の介護に立ち向かうとき、どうなることか。それでもその介護が「突然に来た!」と驚くことはない気がする。
その程度の冷静は保っておきたいものだ。
介護と言えば、このあいだ読んだ「若者の労働と生活世界」で「ケアワーク」の項目があって、「ケアの仕事に「気づき」は必要か?」で
「気づかないという方法」の言葉に考えさせられた。
「介助」と「介護」の違いだとか、「ケアワーク」が「障害者支援」と「高齢者介護」を含む言葉だと初めて知って、
「老い」による衰えと何らかの別原因による「障害」で生活困難な人への支援を同じ「ケアワーク」の言葉でくくるのは乱暴に思う。
構造的に違うものを「ケアワーク」と、まるで「同じもの」であるかのように名付けるセンスが「お役所的」だよなあ、と、
ただ、ここで書かれていたことは私にとっては非常に有益だった。
本来は「ケアワーク」につく若者たちの経済的困難を取り上げるものだったと思うが。またゆっくり読みかえそう。
親の「老い」であるとか「介護」だとか、様々なことに目を向ける程度に時間の余裕があることにもっと感謝しないといけないなあ、
しかし、私もそろそろ「育児」が終わりかけて今度は「介護」と、「黄金パターン」に入ってるよなあ、と思ったのでした。
そのあとはきっと「おひとり様の老後」だね、人生、着々と進んでおります。