雑談。

がさごそ書いていて初めて気がついたけど、私が「家」と書くとき、個々の「家庭」を指す場合と
一族郎党ひっくるめて「社会」となってる「家」を指す場合と両方あるな。
「家格」だとかの「言葉」に一般性があるかどうか知らないが、私は日本は階層社会だと確信するし、
そのことを前提にして考えないとわからないことはたくさんあると思う。
最近よく親子関係だとか「理想の子供像」だとかが話題に上がっていて、
「理想の子供像」に「はにかみ王子」(だったっけ?)と「まおちゃん」があげられているようで、
そんな子が増えたらその存在に希少性がなくなるじゃないか、とか、
私が若い頃大人気だった(確か)「林葉直子」とかを思い出したりして、
せめて「千住兄妹弟」くらいに育つまで、二人のことは保留にした方が、、と彼ら個人の幸福のために思う。
林葉直子は時々雑誌の美容整形の広告に出てて、見る度、私は涙する、、)
それより深刻なのが、親に虐待を受けた、今でも金の無心をされるで、子供が働いたお金を無心するなんて、
子供の口から食べ物を取り上げるようなものだと、暗澹たる思いに駆られる。
子供の給食費を公的機関から支給されても使い込む親もいるらしいし、
昔、高校教師をしている友達から、生徒が生活費を入れない親のかわりに一生懸命アルバイトしている先に
その親が給料日になると無心に行く、その子は学費が払えないから高校を中退する話を聞いたことがある。
なんとか中退は思いとどまるように学校は手を尽くしたけれど、結局、親が面倒をみない弟や妹のために中退してしまった。
今から15年ほど前のことだ。こういう親は昔からそれほど珍しくないんだろう、本当に情けない。
先日の高校の入学式の話も、あれは責められるべきは親の方であって子供ではない。
子供を入学式に出さないという手段はやはり卑劣だ、「学校」という曲がりなりにも「聖域」ですることではない。
子供「だけ」に経済的支援を送る方法ってないものなんだろうか。親と切り離せば伸びていく子供は多いだろうに。
自分が子供の面倒を見ていないのに子供には面倒を見てもらおうとする人の意識は
「家」というものが「家庭」という機能を必ずふくんでいなければいけないのに、それを無視していると思う。
それとも、自信たっぷりでやること全てが間違いない、と思っているのか。
私は「正気か?」と思うような奇妙な「家」意識を持つ人に会ったことがあるのでその可能性も否定できないなあ、、
翻って自分は、と思えば、人に誇れる育児をしているか、子供がどう思っているかはわからない。
「家庭」を与えてやれなかったような「家」に縛られる必要はない、親なんか他人と思え、と、子供に言うべきかな、
私は仕事に忙しい両親ではなく、明治生まれのおばあちゃんに兄弟と共に育てられたのでよくわからん。
大人になってから両親とつきあうようになって、ばあちゃんに育てられてよかったな、と、両親には感謝しているけど
仕事の専門領域以外はあまり常識のない両親に育てられていたら今の自分たちはなかったよな、と兄弟共々納得している。
親の在り方、とか育てられ方、育ち方、家の在り方も含めて、社会全体で考え直すべきなんだろう。
形骸化した「家」(この場合は、「社会」としての「家」)に縛られるほど空しいことはないな、、時々そう思う。