「弱かったらいじめられても当然」?

「あいつを怒らせたら怖いが抑止力になる」とは

常にいじめの対象になる人間を探している社会に身を置いているのか、

某ピーたちはそこまで上品な社会にいるわけでもなさそうだと考えなおした。

でも「怒らせたら怖い」は「喧嘩が強い」よりも

むしろ気が付かれずに誰かをこっそりはめる能力のほうが

私の住む社会では怖がられている。故に喧嘩が強いより頭が良いほうが強い。

暴力があふれていれば希少性が高いものほうが強くなる。

某ピー氏に常に感じる底意地の悪さのようなものは

この手の「裏を返せば弱い人間には集る」のを「是」としてみている

「弱そうに見えるから何をしてもかまわないよな」は

「被害者が悪い」としている加害者側への阿りに見える。

「力が抑止力になる」はとても巧妙な強者側の論理で、

「弱いからいじめられる、いじめ返せるようになれ!」の昭和親父の倫理観、

こういうものがすたれることのない社会に、私はうんざりする。

そしてなぜか「男の子を育てる男親の育児!」は

半世紀前からいつでも「たくましくあれ!」と

ウィンナーソーセージの広告みたいな紋切タイプで、進化がない。

「男親の男の子育てはぁ!」って「子供は野生児に!」なんて必ず言うんだよ、

それで結果はといえば、

誰にでもわかりやすいキャッチフレーズを声高に叫ぶ父親の遺伝子は

息子においても裏切られず、

野生児というよりは高度に洗練された社交技術を身に着けた

素晴らしいサラリーマン戦士に育つ。かっとんだ子供になることは、ない。

私がしみじみ知りたいのは

「男の子社会では強ければいじめにあわない」に納得する父親たちは

かつて、「俺は強かったからいじめにあうなんてなかったけど?」派なのか、

それとも「強そうなやつをいじめるのはやめておいた」派なのか、

ナルシストだったか、意地悪な人間だったか、どちら側がかの話に納得しているのか。

小学生で格闘技系を習っている男子は喧嘩に勝ってもいけないし、負けてもいけない、

ちょっと面倒な立場にいたように私には見えて、

道場に数人で通っている場合が多かったので集団に属する独特の雰囲気から

学校でいじめにあうような心配はなかったけれど、道場内ではどうだったか、

「強そうに見えたらいじめにあわない!」の単純な構図を私は見たことがないので

某ピーの周囲の父親たちが「納得した!」は単に頭の悪い集団なのかとも思った。

「男社会とはぁ!」と「所詮、女にはわからないよな」の薄ら笑いはすたれないな。

そういう父親に育てられる「男の子」かぁ。

子育てはそろっている家庭なら男女ともにご両親でどうぞと心から。おわり。