ふもう。

子持ち攻撃は、「焦り」がさせるようにも思う。「子供を持って初めて世間に認められるはず」と思いこんでるんじゃないかな。
それなら早く子供を作ればいいのに、ごちゃごちゃ言ってないで。
「子どもが欲しくても出来ない身になってくれ!」と泣き言を言う人には私は不妊治療を勧めるし、(最近の不妊治療はすごいよ)
結婚したくても相手がいない、と言う人は相談所に登録することを勧める、何もしないで、子連れにかみつくより、よほど建設的だけどな。
本当に「子どもが嫌い、欲しくない」と思っている人は、子どもをそれほど意識しないだろうし、子どものいるところには本能的に近寄りもしないだろう。
子連れのいない世界ってあるじゃない、かつて子どもがいなかった頃、私がうろついていたのはそういうところだったし、
最近、子どもたちが育って、配偶者や知り合いと出かけるところには小さな子どもなんか影すら存在しない。
子どもが邪魔な人はなんで子どもがいるところにいくんだろう。
基本的にそこが誰でも行ってもいいところだからだと思うわ、そういうところに「文句」を言ってもなあ、、、
あまりにマナーをわきまえない子どもであれば、ちゃんと叱ればいいし、それをしないでネットでぐちゃぐちゃ書くのは前向きではないな。
私は、あまりにヘンなことをしている子どもには何か言う、特に小さい子には。素直に対応する子がほとんどだ。
遠くで見ている親がとんでくることもあるが、イヤな思いをしたことはあまりない。
一度、登りエスカレーターを下がったり、上がったりしている男の子がいて、危なかったので「こらっ!」とやったら、上にお母さんがいて、
目的階につくまで、ずっとにらまれっぱなし、とほほ、と思いつつ、4コマ漫画のような展開がおかしかった。ま、子どもはその「遊び」をやめたしね。
悪い子どもは叱ればいいじゃない。なんでその場その場で対処しないんだろう。
ヤ○ザに注意するのはこわい、と言うのはわかるけど、相手は基本的に子どもだもの、何をこわがっているんだろうな、その辺がどうも不思議だ。
この国で、子どもを育てて16年、子育ての極意はと問われたら、いっぱいあるけど、とりあえず「謝れ」と書いておこう。
大きな声で謝ろう、「子どもがいてすみません」「ご迷惑おかけいたします」と、この国で子供を持つって「謝る」ことなんだよ。
納得できなくても謝ろう、したくもないことを子どものために我慢して、だんだん「親」になっていく、
それでも正直なことを言って、「なれない」よりは「なる」方がはるかにいいのが「親になる」と言うこと。
「うらやましい」と思われるのは仕方がないことだとは理解できる、でもやはり子どもを「モノ」扱いされるのはイヤだ。
「たばこに吹き上がっている連中は彼の主張が読み取れていない!」って、いや、腹が立つのが「人間」だから。
「主張を読み取ってないバカが」と書かれても、いまどきの世の中で子育てしている人間はたいていが「バカ」、
子どものために「バカ」にでも何にでもなれるのが「親」ではないですかね、「バカ」にすらなれない人間は「親」になっちゃいけませんよ。
極論に対して生理的嫌悪感を示すことや、「冷静」を装うことで、失われていくものがあるんだけど、
それに気がつかないふりするのは「大人」の証拠かしらね。それなら私は消耗品の子どもでいいなあ。
「小飼の兄ちゃん」を読んで、「灰は灰に」って言葉を思い出したよ、人は死んだら(火葬にすれば)「灰」になる。
でも生きている間はやはり「人間」だよね、最後は同じ「灰」になるにせよ、それは違う、と「彼」の感覚に異論を唱えるのはそんなに「痛い」?
しかし、子どもを「モノ」扱いされても平気な人って、自分が子どもだったときはやはり「モノ」だったと思ってるんだろうか。
「経済力」がなければ「モノ」なのかな?子ども時代は「モノ」で、金を稼ぐようになったら「人間」か、なんだか「ピノキオ」みたいだな。
ピノキオ」が「人間」になれたのは「魔法」のおかげだったな、いやはや、似非科学が浸透する素地はこういう「感覚」にもあるかもな。
「無生物」が成長して「生物」になる、をどこかで信じているところがあるんじゃないか、おかしな「比喩」を受け入れてしまえるのだものなあ。
「おまえらが産んだ子どもを我慢してやってるんだ!」って意見を平気で書けた人は、子ども時代さぞかし、「よい子」だったんだろうな、
その末路が「子どもなんて社会の迷惑」と表明できる「大人」なら「よい子」に意味なんてないなあ、、、
この一件でわかったことは、みんなが「我慢している俺はえらい!」と思っていることだったりする。
やれやれ、不毛な話だったわ。