日常。

朝日新聞に時々「発達障害」の記事が載る。
今回、「発達障害とともに 特別支援教育編」と題された上下二回の記事を読んで、支援「する」側も「される」側も苦闘を続けているのを確認した。
「上」編で私が気になったのは「社会性を身につけさせる」ことや、「ロールプレイで他人との関わり方を学ぶ」のくだりで、
その「ロールプレイ」で「好ましい行動」とされるものがどんなものであるのか、
私は、まだ発達障害の子供は全体で見ればそう多くないのだから、
むしろ、問題行動のない子どもたちにこそ、そういう子供の受け入れ方を学ばせるべきだと思う。
思いがけない反応を見せる子供を受け止める能力は子供の方が優れているんじゃないか、
それを小さいうちに多くの子どもたちに身につけさせた方がよほど社会のためになる、と考えていたら、
今日の「下」編で、「「みんな違って、みんないい」を実践しました」の学校の例がある。
やはり現場の人は子供をよく見ているんだな、これが一般化されたらいいのに、と心から思う。
発達障害」の言葉は、うちの子供が小さい頃はまだ一般化されていなくて、「子供のしつけは親の責任」な考え方が強く、
でも、どう考えてもお母さんはいい人だし、時々乱暴になることもあるけど本当はとてもかわいらしい子が存在して、
「本当に、「親のしつけ」だけの問題?」とずっと疑問に感じていたのだけれど、去年「発達障害の子どもたち」を読んでやっと納得できた。
変わった反応を見せる子の中にある「回路」のつながり方がどこでで人と違っている、それはいいとか悪いとかの問題じゃない、
と思っていたことがぼんやりと当たっていた気がしてうれしかった。
これを知るのと知らないのとでは、こちら側の反応の仕方も大いに違ってくる、
学校全体、と言うより、国全体でもっと支援していけば、まだ未分化な部分もあると感じられる発達障害も理解が深まるんじゃないか、
だいたい、こんなことで「家庭の責任」という「自己責任」が問われるのはなあ、ぶつぶつ、、、
今は「違いを認める能力を身につける」の機会を、「排除」で奪っている社会のような、
私は少人数学級制にすれば日本の学校教育は飛躍的によくなると思うんだけどなあ、、今年から下の子の学年では1クラス減らされたよ、
「中学2年」でそういうことをするとは、何を考えているんだか、問題が多発する、イヤな予感。
「違い」を「問題行動」で突っぱねる学校の「伝統」はいつ崩壊してくれるんでしょうか、とため息。
現実はまだまだ、険しい教育事情なのでした。
発達障害」を持つ子供に優しい学校は他の多くの子供にとってもすばらしい学校だろうになあ。