いろいろ。

平民新聞」さんの「カレーの一生」を繰り返し見て、癒される今日この頃の私。
「そして、カレーは、幸せな一生を終えたのでした。めでたし、めでたし」とナレーションを入れたいなあ。あのカレーのような一生を送りたい。
ちょっと前に、レポートコピペ問題がホットエントリに上がっていたけれど、「コピペ」はなんと「感想文」だけではないんだなあ。
最近、中学、高校では「授業時間数がたりない」とかで「調理実習」が「家庭でやってこい」と宿題に出る。
作った「証拠写真」を提出するわけだけれど、高校生ともなると、ネットの写真をコピペして提出する奴がいる。
いやー、よく気がついたな、と高1の娘にその話を聞いたとき、思ったもんだが、おかげで本人が作ったとわかる写真を撮らねばならなくなった。
それをしないと意地悪なことを先生に言われるそうだ、で、我が家では、それを食べている写真も撮る。
しかし、そもそも、「調理実習を家で一人でやってこい」は「無理」のある「宿題」ではないか?
「調理実習」はそれをみんなで学校で「習う」ために、教科書に載ってるはずで、私は先生の「手抜き」を子どもに押しつけている気がする。
自分でどう作っていいのかわからない、作るに作れない子供もいるんじゃないだろうか。
写真のコピペはよくないことだが、それに先生が怒り狂うのは何かが違っていると思う。
コピーした子に、何故、作れなかったのか、先生は聞いたんだろうかと、ずっと気になっている。
「レポートコピペ」については、日本の教育方法に一因がある、との意見に私も同意する。
例えば、今、迷走中のふくみみ「ケーキ」先生の問題になったエントリとは
元々、「僕の教えたとおりに学生は反応していなーい!僕の言ってることが理解できないバカモノめ、けしからん、プンプン!!」との怒りの表明で、
ふくみみ先生は、自分が考えている以外の反応を学生に求めていない人だ、と私は理解した。(違うかもしれないが)
大学に入っても、まだなお、先生が設定した「正しい答え」以外を出すと憤られてしまう、これが今の教育なんだなあ、と
だから、いつも先生の考える「正しい答え」を求められてきた子どもたちが、「正しくなくてもいいから「自分」の答えを出してごらん」と言われても、
その質問の「本当に正しい答え」はどこにあるのか、それをまず探すことから始めるんじゃないかな。
それをネットに求めて、出した「正しいはずの答え」を否定されたとき、
まず学生は、「コピペがばれちゃった」と舌を出すより、「別のを出した方がよかったか」と思うんじゃないか、私はそんな気がする。
教育現場の現実は「正しい答え」を機械のように出すことが求められている。これは、現在中1、高1の子どもたちの勉強を見てきてそう思う。
自分で考えることなんか、ほとんど求められてきていない、
それでいながら「自由に」だとか、「個性を尊重して」と、ちぐはぐな考え方が上から「お達し」として降ってくる、
結果、先生は迷走し、何を教えていいものか、作文の「型」を教えることは「個性を押さえつける」とか、
(また、そういうことを言ってくる保護者がごく「まれ」だが存在する。単に、思ったほど子供の作文が評価されなかったことへの恨みと思われる)
あれこれ考えすぎてしまって、子どもたちは、なんにも教えられないままに放置されてしまう。
そのつけが、どんどん回ってきて、最終的に、そのつけは教えられなかった子どもたちにおしつけられる。本当は子どもがいちばんの被害者なのに。
コピペ問題に限らず、学生に自分たちが求めている能力がないと、大学は「高校が悪い」と言い、高校は「中学が悪い」と、
もちろん中学は「小学校が悪い」というわけで、さすがに小学校は「幼稚園、保育所が悪い」とおおっぴらには言ってないような、
(言ってるのかもしれないが)だからやはり「家庭が悪い」「親が悪い」「母親が悪い」と、
いやはや、「産まれてきて、すみません」、と親子共々追い詰められてしまうわ。
先頃、少子化の原因は、女性側の「意識」の問題だとかなんとか、産んでも全てを「母親」の責任にされてしまうような国で、子供は増えるかなあ。
それでも、いったん「親」になれば、うまれてきた子供共々、生きていかなきゃならない。
何が「正しい」のか、さすがに私は「ネット」で「こたえ」を探そうとは思わないけど。
だからうちの子たちは、立派にへたくそ「感想文」「レポート」を学校に提出中です。
ネットで見知らぬ人が、カレーと愛し合う、その過程の写真を見せてもらって、「共に生きる」何かがわかってくるような気もする。
とりあえず今晩は、カレーにしよう。