いたむ。

いい年になれば、結婚式より葬式の数が増えてきて、「宗教」を考えることが最近よくある。
「心の支え」「おまじない」の必要性を理解しながらも、今ひとつ、私が「神」という存在を信じきれないのは
この上なく必要とされている存在が突然奪われてしまうのを目にするからだ。
神は何故そのような試練を与えるのか、それはどのような基準で選ばれるのか、と傲慢な問いかけをすることすら、
神は許すだろう、とその「寛容」を信じているというのに、やはり私は、若い死に取り乱す。
全く知らない人の大切な存在が失われたのに涙するのは、そのことを綴った人が泣いていただろうから。
先日、朝日新聞で、最近の「おくりびと」ブームや「千の風になって」のうたに関して、とある僧侶が
「他人の死すらも自分の「癒し」に使おうとする貪欲」との内容を語られて、
見知らぬ人の死を私もまた「消費」しているのではないか、と疑う。
いたむのは、誰の心か、誰のためか。「神」のことや、ネットに存在することを、もっと深く考えていこうと思う。
精一杯生きた人の後に残された人の健康を心から祈る。