あれこれ。

(参考);「追記」を2月16日の日記にしました。
最近、ネットでは「性」にまつわる騒動があれこれあって、私は最初に悲鳴を上げた人をひたすらに気の毒だと思っている。
誰が、どのような正論を書いて観衆から拍手喝采を浴びようと、自分の傷を露わにした人に対して、それが助けになるのかどうか、
そこで血を流している人を目の前にして、その血を止めることも出来ないのに、
その傷の原因はどうで、このように膿んでいく、なんて「診断」されたところで、なんの役に立つものか、
「医師」のまねごとをしたいなら、まずその傷口を押さえてあげろ、と腹が立った。
傷を癒すのは、適切な応急処置と時間、それをそっちのけにして、騒ぎはまるで劇場法廷だった。
まだ血を流している被害者を引きずりだす法廷って、ありなのかな。
ネットの言葉で何が出来るのか、いろいろ考えさせられた。
私は自分が好意を持つ人だけでも慰めることが出来る言葉をつづれるようにこれからは努力したいと思う。
性に関する馬鹿げた話を誤解と曲解で投げかけられて、何故こうもまあ、話が飛躍するのかずっと不思議だったが、
相手に入り組んだ事情があるようだ。思いこみが激しすぎて、いったんこうだと思いこむとそれ以外のものが見えなくなる、
娘と母親の関係はそれほど難しいものか、私は早い時期に母親を見放したような所があるのでよくわからない。
それでも、今、特に問題がないので、娘に対する母親の絶大な影響力、なんてものは私には「眉唾」に思われる。
時期が来れば、娘は母なんか捨ててさっさと「愛」の生活に入るものですがな、(当然、その時に「父」なんて存在は「無」である。パパ、とほほ)
全く、アホかいな、セックスに関する情報が「母親だけ」なんて、「異常」としか思えないな。だから、変わった発想をしてしまうのかな。
でも私には自分の落ち度を母親のせいにしているだけに見えるな、なんだか本当に馬鹿馬鹿しい。
それでも、ある種の人にとっては、母親だけしか女の子に性を教えないことが「理想的」に見えるかもしれない。
恐ろしく前時代的な考え方で、女の子の体は自分のものではなく、「家」のためのもの、当然子供を産むことを強制されるわけだけれど、
その場合、セックスは女にとって苦痛以外なにものでもないだろう、それが「家」に押しつけられる「性意識」、
私はそんなものを子供に与えたくはない。
私は、自分の体を大切にすることと、性を忌避することは全く別物だと子どもたちには知って欲しいと思っている。
残念なことに、子どもたちの世界では、学校や親が「性」について語る前に情報が入ってきて、
それに対して、好奇心を覚えるもの、反発するもの、反応は様々だ。
好奇心を覚えすぎて妄想に走って、今はネットで誰でもがつながる時代だから、最悪、簡単に性犯罪者の「餌食」になる場合もあるし、
(もっとも、性犯罪の犠牲者に子供がなるのはネットがない私の時代でもあったことで、私はネットを否定するつもりはない。)
反対に、反発して勝手に性への嫌悪を育ててしまい、それを自分だけではなく、仲間に押しつけてしまったり、
(そんなことをするのは「不良だ!」って、ま、ある程度は正しいんだが。)
そういう混沌とした状態をなんとか整理するために、性教育を学校できちんと施してもらいたいものだが、
少なくとも私の娘たちが小学生時代には、性教育に関して、先生方が妙に腰が引けていて、何を習ったのやら、何がわかったのやら、
昨日、「梅毒が急増」なんてニュースをネットで見かけて、
学校で子供が出来る自分の体の仕組み、性行為における感染症についてもっとしっかり教えてくれよー!と悲鳴を上げそうになった。
勤務医の身内に聞いた話では、日本は先進国で唯一、「エイズ」が増えている国だそうな、
それもちゃんとした「知識」が与えられていないため、この状態をなんとか打破してもらいたいものだなあ、
ジェンダーフリー教育、反対!」なんて逆行したことを言ってないで。
ジェンダーの意識がきちんと育てられていれば、セクシャルハラスメントへの意識も、もっと浸透するんじゃないか、
「言葉」であっても、深く傷つく人に、まずどう配慮するべきか、それももっと理解しやすいような、
どうにもまとまらないけれど、「性」の話題が、ここ数日、私の中の「キーワード」だったんで、とりあえず、メモ。
私は、私の配偶者のような人と、子どもたちが巡り会って、精神的にも肉体的にも大いに愉快にすごして欲しいと心から願っている。
たいていの願いを、私は私なりに努力してかなえてきているので、子どもたちも必ずそうなる、と信じている。
幸せは常に肉体と精神と共にある。それだけに、言葉で心を傷つけられた人を悲しく思う。その人の幸福をひそかに祈る。