雑記。

パーフェクトチャイルド幻想の歴史というエントリを面白く読んだ。
社会は「完全品」を常に求めている、だから「完全な子どもを育てろ、さもなくば、おまえはトンデモ母親だ!」と、
自分が母親でもなければ、子供さえ持っていない人がよくこういうことを言うんだよね、、、
ネットで「正義の味方」をしたい人の「子どもがかわいそう!」発言がそう。
「子どもがかわいそう!」と言いさえすれば、自分は「完全ないい人!」になれてしまう。何もしなくても。
教育の難しさを何もわかっていない人間が平気で教育に口を出せる、この根拠は自分が「素晴らしい人間だから」らしいんだが
私は「子どもがかわいそう!」発言をしたネットの人間に「パーフェクト」な人間を見たことはないな、自分は「パーフェクト!」と信じているようだが。
子供を持つこと、育てることは、今に限らず、常に人類に課された「チャレンジ」で
その「チャレンジ」をしないことがある程度の「見識」として現代は見なされている、ここに一番今の難しさがあるんだが、
それを認めない人が多いんだよね、いわゆる「識者」は自分の手で子どもを育てたわけではない人が結構いるから。
統計だけで子どもが見えるわけでもないんだが、それをいっちゃあ、オシマイよ、になっちゃうんで、いろんな事が曖昧になる。
ここ数年、地元で子どもがどんどん減っているのを身にしみて感じていたりして、それだけに「子育て」がどこか「見世物」に成りつつある、
子育てをしている側も自信が持てないから、自分とは違う子育ての考え方に攻撃的になる、
「断絶」というのはこういう状態を言うんだろうな、なんでここまでになったんだろう?不思議だわ。
「パーフェクトな自分」というナルシシズムが一般的になったのはいつからだろう?
パーフェクトでありたいがために子供が作らない、でもパーフェクトでありたいがために結婚はする、その手のカップルがやりたがることは「社会奉仕」だったりして。
40半ばにもなると「アホか」みたいな「パーフェクト」なカップル(?)のなれの果ての現実を見たりするんで、「パーフェクト」なんてものに懐疑的になるなあ、、
まあ、「理想」は存在していいものなんだけどね。
ネットで「子どもがかわいそう」と何度か書かれてしみじみわかったのは、この言葉を私に向ける人は、自分のこの一言で
「トンデモ母」な私が「ああー!私、今、あなたのおかげで目がさめましたっ!!あなたは、私とわたしの子どもの恩人ですっっ!!!マンセー!!!!マンセー!!!!!」
になると妄想しているらしいこと、
いいわねえ、、、そういうマスタベじみた妄想力、トンデモがその程度で治ると信じている無邪気さが痛いわ、
本当に「トンデモ親」と対峙した経験を持つわたしはとてもそんな甘い言葉は吐けないな、
「子どもがかわいそう!」という「だけ」でなんとでもなる、と思えるのは、多分自分がたった一言で魔法のように「変われる」事を望んでいるんでしょう、
「パーフェクト」の底の浅さにうんざりする。
「ゼロリスク」幻想も同じところから出ている気がするな、これは語弊がありそうだが。
「パーフェクト」とは「ありえない」の認識をしないとね、、