雑記。

ネットで「恥」という言葉がふと目についた。へえ、これをこの人が書くんだなあ、と私としては感慨深い。
「恥」の概念は様々なので「こんな恥ずかしいことをして!」で断罪出来ると私は思わないが、ネット上ではそう考えている人は多いようだ。
また、ネット上では他人に「恥」をかかせたがる人をよく見かけるが
私が所属する現実社会では、「他人に恥をかかせようと画策する人間は恥をかかされる人間以上に恥ずかしい」が常識化していて、
「恥ずかしいこと」を承知の上でやる人間よりも、それをあげつらって恥をかかせる人間の方を軽蔑する。
私にとっては「自分」に恥ずかしくないか、どうかが最も重要だ、「誰か」に「恥ずかしい」と「見られる」ことは問題にならない。
そういえば、別idを作って私を罵倒しまくった粘着が「もっと恥をかけ」などと書いてきたことがあったなあ。
そんなことを書いて「恥ずかしくないか?」と私は思ったが、本人にとっては恥ずかしくないんだろう、
相手にとっては私を罵倒することが「正義」、そのためならば、いくつIDをとって「他人」になりすまそうが「恥ずかしくない」、
どうも「恥」とは「正義」概念と結びついているらしい、「スマイリーきくち」事件で持ち出された「正義」も「恥」と大きく結びついているよなあ、、
未だ、ひそかに粘着し続けているバカを挑発するのはこのくらいにしておくか。
今、配偶者に「スキンポールって誰?」と聞かれて、ディケンズの「荒涼館」を読み直している。
手元にあるちくま文庫の訳本では「スキムポール」とされていて、ディケンズ特有の独特な表現法で造形がなされている。
手短に書けばこの人物は「たかりや」であるのだが、その「たかり」手法が非常に巧妙なので、たかられた方がそうとは気がつかない、
「恥」の概念を逆手にとって、受けた恩恵をうやむやにしてしまう、そのやり方が「詩的」であるというので周囲には許されている、
150年ほど前に描かれた人間像と、現在の日本のローカルなネット上に起こっている現象に似たものがあるので面白い。
場がどのように変わろうと、出現する人間とはそれほど変わらないと言うことか。
ディケンズは日本では評価の高くない作家だが、この魅力をもっと知ってもらいたいものだ、
なんで「シェイクスピアー」は必要以上に持ち上げられるのにディケンズは駄目なんだろうな、、、偏見だよな、全く。
ディケンズの話についてはいろいろ書けるけど、風邪をひいたのか、頭が重いので、この辺にしておこう。
「恥」なんて言葉を今更持ち出す理由ってなんだろう、「同調圧力」か?
いやはや、だなあ、、、